第4回 「友好の指定席」(生々流転vol.7)

    「様変わりだね~、見る影もない」。1970年代の終わりころにジャカルタで一緒だった日本人の友人が、十数年後に現地を再訪し、変貌した街並みを見て、そうもらした。その一言がなぜか頭に残っている。

    その友人がジャカルタにいた頃は、独立広場から南北に伸びる幹線通り沿いでもベチャという人力車が走り回っていた。今のヌサンタラ・ビルディングの最上階からはジャカルタの街がさえぎるものなく一望でき、遠く北にあるスンダ・クラパの港まで見渡せるほどだった。

   ときは「国家開発の父」と諸外国からも賞賛されたスハルト大統領の全盛期だった。経済の成長は目覚ましく、その後の十数年で新しいビルやホテルが林立するなどジャカルタの風景は一変していた。友人の驚きは想像に難くない。ただそれを驚嘆すべき進歩と見るか、見る影もないと否定的に受け止めるか。ひとの印象は様々だ。

 

    私は昨年の夏、久しぶりにジャカルタを再訪した。その時の印象を書きませんか、と「生々流転」生みの親、宮島さんから誘われた時、最初に頭に浮かんだのはこの「見る影もない」という友人の感想だった。私は1992年に最後のジャカルタ勤務を終えた後も断続的にインドネシアの地方都市に勤務したが、今のジャカルタは別世界のような変わりようだ。

   5年ぶりのジャカルタの宿泊先はケンピンスキー・ホテルだった。日本の戦後賠償により、スカルノ大統領の時代に建設されたインドネシアで最初の近代的な、ホテル・インドネシア(HI)という名のホテルが、半世紀近く経ってからリノベーションされ、高級ホテルに蘇ったことは知っていた。

    ただ、泊まるのは今回が初めてだ。内装や客室は完全に改装され全く別のホテルと言って良い。かろうじて、外観に昔のHIの名残を残している。スカルノ時代にはこのホテルの最上階にあるサパークラブがデウィ大統領夫人らこの国のセレブが集う最も華やかな社交の場だったそうだ。想像を広げると美しい照明の中を流れる音楽やゲストの会話の声が聞こえそうでもある。

   しかし1974年に赴任した私が先輩からその頃の様子を聞いた時には、HIに昔日の面影はもうなかった。すぐ近くに日航プレジデント・ホテル(現プルマン・ホテル)がオープンしていたし、スハルト政権下の高度経済成長と軌を一にするようにしてその後もサリパシフィックやマンダリンなど日系、外資系のホテルが次々に進出し、それに反比例するようにHIの明るさはかげっていったからだ。

 

    HIの歴史は日本とこの国の歴史の一面を物語っている。日本の戦後賠償で誕生し、新興国特有の贅沢で華やかな世界を象徴する憧れの場所として、数々のビジネスや政治の舞台となったが、その後は全般的な経済活動と生活水準の上昇につれてその存在は薄れていった。

   その経済発展を支えた大きな中心のひとつは日本であったから、HIの輝きを奪ったのも日本だと言えないこともない。当時のインドネシアは豊富な石油に支えられた国家歳入が人件費などの経常的な支出でほぼ消え、インフラなどの開発予算は海外からの援助に依存していた。

    そのためにインドネシア援助国会議が毎年開催され、その中で圧倒的な比重を占めていたのが日本だった。会議開催前には大統領から全幅の信頼を得て経済運営を任された大臣が日本を訪問するのが恒例になっていた。投資も貿易も日本が当たり前のように第1位の相手国だったから、街には「日本」があふれていた。ある意味でいびつな関係だが、この国の人たちは日本の軍事占領下で経験した恐怖や数々の不愉快な出来事を胸にしまい込んで、福田総理が提唱した「心と心のつながり」という呼び掛けに、心を開き歓迎した。両国関係は円滑に推移した。

 

    人間関係もそうだが、こうした一方に偏った経済関係の上に永続的な友好を築くにはどうすべきなのか、という思いが当時の関係者の共通の課題だったように思う。少なくともお互いをパートナーとして感じられる関係は必要だということは分かるが、その道筋がなかなか見つからない。

   しかし今回、ケンピンスキーに宿泊してみて、そういう時代はとっくに過ぎ去っていることを実感した。このホテル自体が日本の国と無関係なところで復活しているし、周りを見ても数多のシンボリックなモニュメントに日本は関与していない。今や堂々たるG20のメンバーで、日本は多くのパートナーのうちの一国である。

    こうなると逆に「インドネシアに日本の指定席を確保したい」という考えが出てくるのも当然だ。そんな背景があるからなのだろうか、この国の発展の当然の成り行きとして民族主義的な気運が(特に経済政策面で)盛り上がると、感情的な反発の声が日本から上がることがある。「生意気だ」などという声すら聞こえる。特に過去の両国関係を知っている人たちには、「過ぎ去った良き日」が記憶から離れないのだろう。インドネシアを取り巻く環境が変わっていく中で、日本は「友好の指定席」を見出すことはできるのだろうか。

 

     翌朝、小型バスで訪問先に向かった。車窓からはスディルマン通りが見えているはずだが、体調不良と工事の遮蔽(しゃへい)の塀が重なってよく目に入らない。MRT地下鉄工事の真っ最中なのだろう。

     工事の進捗ぶりは帰国後も新聞や雑誌で知ることができた。最新のシールド工法が大統領始めジャカルタ市民の注目を集め、何よりも計画に沿って整然と規則正しく工事を進める日本企業の仕事ぶりへの高い評価はうれしい限りである。

    ジョコウィ政権は道路、鉄道、発電所その他のインフラ整備を精力的に進めている。晴れやかな落成式や工事現場の報道も多い。しかし実際は、計画性や責任感に欠ける事業も少なくなくないらしく、やはり日本の人と企業はディシプリンが高いとインドネシアの友人にほめられると誇らしい気分になる。

 

    この言葉には責任感や時には職業倫理の高さへの称賛も含まれているように思われるが、戦時中、インドネシア人に厳しい労働や訓練を強制した日本人兵士に対してすら、そのディシプリンを称賛するインドネシア人に出会うことがある。

    ディシプリンは日本人がこの国で贈られた最も古い称賛の言葉かも知れない。そのような認識が代々の日本人の努力によって受け継がれている。もしかすると、インドネシアにおける日本の「指定席」は、この言葉が入り口になるのではないかとも考えたりしている。