11回 「新たな『ブランタス・スピリッツ』を!」

  「ブランタス・スピリッツ」と聞いて、独立インドネシアが最初に挑んだ河川流域総合開発プロジェクトを思い浮かべられる人は、インドネシアに住んでいる日本人の間でも少数派になっているかもしれない。

    ブランタスとは言うまでもなくジャワ島東部、標高3000mを優に超えるアルジュナ山や活発な火山活動を続けるクルド山などの山塊の東側を源流とし、時計回りにこの山塊をほぼ一周してマドゥラ海峡に臨むスラバヤに至るブランタス川のことである。この流域は豊かな水と肥沃な土地に支えられて、古代からクディリ王国などいくつもの王国が興亡してきたところでもある。インドネシア最大のマジャパヒト王国の王都もこの流域にあった。

 

    この恵まれた水と大地が、洪水氾濫や噴火の脅威と背中合わせになっているのは自然の摂理としてやむを得ないことである。独立間もなくで、いまだ頼るべき産業を持たないインドネシアはこの潜在的な自然の恵みを人間の力でコントロールして一大穀倉地帯に再生させ、さらには近郊スラバヤ地区の産業用電力の供給源にしたいと考えていた。この期待に応えて日本の関係企業や政府が一体となって取り組んだのがいわゆるブランタス・プロジェクトだ。その始まりはスカルノ時代の1950年代にまで遡る。

    プロジェクトは火山噴火による流出土砂を制御する砂防工事、流域に沿っていくつも建造されたダムと発電設備、灌漑施設、河川改修や浄水施設等々、文字通りに総合的な取り組みであった。この壮大なプロジェクトの完成に向けて日本とインドネシアから集まった多数の関係者が力を合わせた技術者魂がブランタス・スピリッツと呼ばれている。この過程では、日本とインドネシアの技師ら7人が死亡する悲しい事故にも見舞われている。

    ブランタス・スピリッツを世に知らしめた背景には、このプロジェクトを通じて日本から技術の移転を受け経験を積んだインドネシア人技師らが、その後のインドネシア各地の水資源開発などで指導的な役割を果たしたという事実もある。日々の生活もままならない当時の、しかも都市から離れた不便な現場で、このブランタス・スピリッツを育んだブランタスマンとしての日本の関係者の苦労と気概の高さには敬服するほかない。

 

    ブランタス・スピリッツはひとりこのプロジェクトの関係者だけでなく、発展途上にあったインドネシアにそれぞれの夢を抱えて赴任した多くの人たちが共通して持つロマンをも象徴していたような気がする。私がジャカルタに最初に赴任した時にはすでに日本料理店が数軒あり、そこそこの生活をエンジョイできたから、残念ながらロマンとまではいかなかったが、それでもブランタス・スピリッツに勇気付けられた思い出は残っている。

    中部ジャワでの語学研修を終えて勤務についた私の最初の仕事は、インドネシア学生運動家や新聞記者、あるいは若手の国会議員などを相手にすることが多かった。当時は初めて本格的に外国企業へ門戸を開くことで経済が急速に活性化していた時期で、内政的にはスハルト政権が権力を集中している時期だったこともあり、彼らとの接触では、しばしば日本に対するステレオタイプの「経済侵略、エコノミック・アニマル」といった批判を聞かされた。

    急速に経済が発展すれば、一時的にある程度陰の部分が生まれるのは避けられない部分もあると思うのだが、独立の理想を性急に求める彼らにはそんな回りくどい説明を聞く気持ちの余裕などなかったし、そもそも彼らの最大の関心事は対日関係の是非よりも実はスハルト政権そのものに向けられていたから、こちらの説明には最初からあまり興味がなかったのかもしれない。

    そんな中で日本のインドネシアへの関わり方は正しいはずだと基本的なところで自信を持てた一つの支えは、このブランタス・スピリッツが議論の余地なく現実にそして身近に存在していたからだった。もちろん、「ブランタス・スピリッツ」という言葉はカランカテス・ダムの竣工式にスハルト大統領が祝辞で最初に使ったそうだから、インドネシアの人々に広く伝えられていたのは間違いない。

 

    今、日本のインドネシアへの関わり方には、かつてのようにインドネシアの国づくり全体をインドネシア側と一緒に背負い込むようなような意気込みはもちろんないし、それはとてもできることでもない。インドネシアを取り巻く国際環境も国内事情も根底から変わっている。

    日本とインドネシアとの間には新しい関係が形作られる時期にあるようにも見える。企業環境も厳しくなっていることであろう。しかし、そんな中で日本が大型プロジェクトを取ったか、取られたかを基準にしてインドネシアとの関係を評価するような声を聞くとやはり少し寂しい気がする。
    ブランタス・プロジェクトは当時の国家的な大事業だったが、日本との関係で今に至るまで継承されている価値はその経済的効果ばかりでなく、ブランタス・スピリッツに代表される日本人の職業的責任感と誇り、そしてそこから生まれた両国の関係者の一体感や信頼感にあるような気がしている。


    インドネシアとの間では今も多くの重要なプロジェクトが日本との協力で進められている。そこでは今も新しいブランタス・スピリッツが生まれているのではないだろうか。インドネシアでは色々な国との協力が多彩に展開されるようになっているが、やっぱり日本との協力が最も強い信頼感を持てると言う感想をインドネシア人の友人から聞いたりするとうれしいし、日本とインドネシアの関係は正しい方向を向いていると感じさせてくれる。

    もしかしたら小さなブランタス・スピリッツは日本人のいる職場や現場でそれぞれに形を変えながらあちこちに生まれているのではないだろうか。そんな気がする。(了)