第12回 「東ティモールを回想する」

       今回はインドネシアの隣国に関わることについて書いてみたい。2002年、21世紀になって世界で初めて独立した東ティモール民主共和国のことだ。

    東ティモールは、宗主国ポルトガルが1974年の政変で海外の植民地支配を放棄した結果、様々な独立の動きが加速して武力対立がエスカレートする中でインドネシアの武力介入を招き、結局併合されたという経緯がある。その後も東ティモールではインドネシア統治への抵抗運動とそれを弾圧する軍事作戦が続き、1991年には軍によるデモ隊への発砲で400人近くが死亡するサンタクルス事件も経験した。

   しかしスハルト政権崩壊後に就任したハビビ大統領が1999年8月に東ティモール独立の是非を問う住民投票を実施し、住民の8割の支持を得て独立が実現した。その時の混乱でも多数の死者が出た。ここではこの過程で私が知った2人の東ティモール人について記してみたい。

 

    私がRと初めて会ったのは、80年代の後半に彼が仲間1人と一緒にジャカルタ日本大使館に亡命した時である。大使館内で彼らを一時保護することになって、日々の生活の世話役を命じられたのである。当時、インドネシア政府は多くの東ティモール青年をジャカルタやバリなどに「国内留学」させて人的資源の開発に努めていた。
    この政策は抵抗運動が収まらない東ティモールへの懐柔策でもあったが、逆に彼らは新たな知見に触れて独立意欲を高めてもいた。皮肉なことに植民地時代のインドネシアとオランダの関係を彷彿とさせるところがある。亡命した2人は結局、インドネシア側の不逮捕の約束を得て大使館から自主的に退去したが、私はその後も内緒でRと連絡を取り続け、時々場所を変えながら市内で密かに会っていた。接触が間遠くなりしばらくしてから、インドネシア政府が亡命とは別件で彼を逮捕したと聞いた。

     私が次に彼と会ったのは、東ティモール独立後の首都ディリである。彼は独立後に第3政党の党首になったと聞いていた。久しぶりに会うRは、精神的な風格を備えているように見え、見違えていた。懐かしく旧交を温めた後、彼が人生を捧げた独立東ティモールで、彼は居所を転々とさせていると語った。独裁政権下で野党的立場の彼は生命の危険を背負いながら政治活動をしていたのである。

    会食中も部下が周辺を警護していた。また会おうと言って別れたが、一昨年彼は急逝した。長い闘争の生活だったが、その後、彼は国会議長や副首相なども歴任したので、祖国と国民の発展に貢献した実感を持って逝ったのではないかと思う。

 

    もう一人のSはジャーナリストである。私は、インドネシア統治時代の東ティモールサンタクルス事件の前と後の2回訪ねている。最初に東ティモールに行った時、彼はインドネシア青年委員会の東ティモール支部のリーダーだったように記憶する。

    インドネシアの「友好国」である日本の外交官としては、「インドネシアの官製青年組織」は「現地事情視察」の無難な相手先だった。そもそも完璧な軍事統制下で当局監視の目をかい潜って行動するのは、「非友好的」と見做される覚悟がないと難しい。サンタクルス事件後に再訪した時、一人で事件の現場となった墓地を訪ねてみたが、それだけでも翌日早速現地の外務省担当者に単独行動を控えるよう遠回しに注意された。

     Sはその後、東ティモール州選出の国会議員に選ばれた。ほとんどが平屋の州都ディリから国際的なメトロポリタンに変貌しつつあるジャカルタに初めて来た時、彼は眼を見張っていたが本当のところはどんな心境であったか私には分からない。彼の信ずる現地のカトリック教会組織はインドネシア統治を拒否する民衆の精神的な支えとして無言の抵抗を続けていた。
    他方で彼が国会議員として代表するインドネシア「27番目の州」は「併合の合法性」を象徴するものだった。彼とは何度も会食し交流があったが、彼の心の葛藤を聞くことは結局できなかった。彼は今、独立東ティモールでジャーナリズム活動を続けていると友人から聞いた。葛藤を整理したのであろう。

 

     今、東ティモールは見違えるように平和で豊かになったそうである。石油・ガスという天然資源に恵まれたことが幸いしているのかも知れない。インドネシアとの関係も悪くない。しかし、東ティモールの短い独立の歴史の中でなんと多くの人々が犠牲になって来たことか。今から振り返ると、やむを得ない歴史であったようにも見えるが、国家の意地が無用な遠回りをさせたような気がしないでもない。そんなことをつらつら考えるといつも私の頭に浮かぶ一つの光景がある。

    最初に東ティモールに行った頃は、インドネシアの併合に対する国際的な非難にも風化の気配が見え始めていた。訪問初日の夕食時、たまたま現地軍司令部の中佐と知り合った。現地のトップは大佐だったから、それなりの立場の人だったと思う。

    彼は翌日ヘリで東ティモールの東端の県を案内してあげると申し出てくれた。翌日のアポは即座に全てキャンセルした。パイロットと我々2人だけのヘリから見下ろす景色は刺激的だったし現地の見聞は貴重な経験だったはずだが、具体的にはほとんど記憶がない。

    鮮明に頭に残っているのは、ジープの助手席に乗ったその中佐が時々手を挙げる仕草をすることだった。何をしているのかと尋ねると、住民とすれ違う度にあいさつとして敬礼のような仕草をするのだという。無論住民があいさつを返すことはない。むしろ顔を背けている。しかし、こういう態度を地味に伝え続けることでしか、今の住民の気持ちを取り戻すことはできない、と中佐は静かに語った。

 

    サンタクルス事件の後、国際的な激しい非難の中で、東ティモールを管轄するウダヤナ軍管区司令官以下の処分が発表された。軍が任務遂行中の事件で処分されるのはおそらくこれが初めてのことだ。処分を伝える新聞記事の中にあの中佐の名前があった。「東ティモールの虐殺の歴史の加害者はインドネシア国軍」と割り切ってしまえばなんということはないが、一人ひとりの意思を超えたところで世の中は動いていくという感傷はなかなか拭えない。(了)