第7回 『寛容な社会』の行先 (生々流転vol.12)

       前回、アホック知事の宗教発言が何故あれだけの反発を招いたのかという疑問について一つの視点を紹介した。他方で、そのイスラム社会の激しい反発を目の当たりにして、多くの人々が強い危機感を抱き、民族的な多様性の尊重を訴える運動が大きく盛り上がったのも事実である。
      その運動を支えたのは、知事の糾弾は「行き過ぎ」だと感情的にアホック擁護に立ち上がった人々や、「発言」をアホック候補の選挙攻撃用に使う相手陣営に対抗するために政治的に動員された支持者などなど。その動機や背景は様々だ。短期間でこんなにジャカルタを良くしたアホックを何故いじめるのだという素朴な意見はイスラム社会にも多かった。
      そうした様々な反応の中で、今回の事件は、イスラム社会の不満や怒りが噴出した一過性の事件、あるいは選挙という当面の政治目標を達成するだけの出来事では終わらないのではないか、もしかしたら「多様性の中の統一」という国家の標語に示された民族と国家の一体性を揺るがす動きに発展するかも知れないという懸念が新聞や雑誌の評論では数多く表明されていた。そこで今回は、前号で示したイスラム社会からの視点とは逆の立場、イスラム社会という旗を掲げて行われた運動に対して民族の多様性を守る立場の人々が抱いた危機意識がどういうものかについて少し考えてみたい。

 

    アホック知事を糾弾する運動が激しく盛り上がっていた頃、モボクラシーという聞き慣れない言葉が頻繁に使われた。群衆や暴徒などを意味するモブと、民主主義のデモクラシーの合成語で、イスラムを冒涜したと怒ったイスラム団体らが、アホック氏を逮捕しろなどと要求をエスカレートさせていることに危機意識を募らせた人たちが使い始めた。

    スハルト政権以降で最大規模に発展した抗議行動は、過去の略奪、暴動の悪夢を呼び起こし、政府はこれを放置すると経済や外国投資にも影響しかねないとしてデモ隊側の圧力に屈するような形でアホック氏を容疑者に認定した。またアホック裁判では、検察側が立件できないと判断して罪状に含めなかったにも拘らず判事が宗教侮辱罪を職権で認定、検察の求刑より重い量刑を言い渡した。この判決には、デモの激しさに判事が脅威を感じたからではないかという意見が識者の間からも聞かれた。

   ムスリムの全てではないにせよ、イスラム社会の意思だという旗印を掲げて実力行使の大きな運動を展開したら、それは巨大な圧力となり、法律を飛び越し有無を言わせずに政府を動かしてしまう、そういう国に向かう端緒にこの事件はなるのではないか、という危機意識がモボクラシーの言葉には込められている。人口の85%がムスリムという現実の重さは、民主主義や法治国家の原則をも押しのけかねない潜在的な圧迫感を人々に与えるのであろう。

       ジャカルタイスラム大学元学長は、ジャカルタ知事選挙に関する論評の中で、「大衆に迎合してトランプ氏が大統領選挙に勝利したのだからムスリムが圧倒的多数の国でイスラム迎合主義が勝利しないはずがない、今回の勝利はイスラム迎合主義の始まりとなる」と考えるアニス次期知事支持者が存在すると述べている。やはりアホック事件で広がった危機意識には根拠があるのだろうか。

 

     外国に目を転じてみよう。独裁政権やカリスマ指導者の国が急に民主主義国になると、国家統一の理念よりも宗教や種族などの身近な利害が国民の行動基準になって国が混乱する例が多い。古くはユーゴスラビア、その後も「アラブの春」の国々など枚挙にいとまがない。

   インドネシアでは、スハルト大統領が退陣して改革の時代になった時、「自由」というパンドラの箱が開き、国民はみな好き放題に権利を主張し始めた。それまで厳しく規制されていた労働組合はタガが外れたように工場を占拠し高速道路を封鎖して大幅な賃上げを要求したし、美しい保護林だった森は住民の野放途な違法伐採であっという間にはげ山になった。当局は法の執行に躊躇(ちゅうちょ)した。地方自治体の権利主張も激しかった。

     そんな中でイスラムのコミュニティーの自制が目を引いた。イスラム社会で尊敬されていたワヒド氏が大統領に就任したことも作用しているかも知れないが、イスラム社会のエゴの主張は驚くほど少なかったと思う。当時の国内状況を考えれば誇るべき穏健イスラム社会と言って良いだろう。しかしその後は徐々に、イスラムの戒律を踏まえた条例が地方自治体で導入され始めたり、国内のイスラム少数派や異端と見做された教団への暴力や迫害が増えたりしている。ムスリムの周辺住民から同意を得られずにキリスト教会が建設できないなどのトラブルも多発している。こうした状況の変化を背景にして「寛容と融和」の社会が少しずつ変容しているのではないかと感じる人も増えていた。

    そういう中での今回の事件であった。一部かも知れないがイスラム社会の中に、融和よりもイスラム社会の要求を意識的に優先する力が強くなっていると受け止められたのであろう。その懸念に現実感を与えたもう一つの原因はアホック糾弾集会を主導したのが暴力的な強硬イスラム組織だったことであろう。断食月に営業中のナイトクラブを襲撃、破壊していた団体で、思想的にはこれまで議論がタブー視されていた建国の5原則に異論を唱えている。これとは別にイスラム国家建設を明確に標榜する団体の活動も問題になっている。イスラムのスカーフを着用する女性が増加していることでインドネシアイスラム化を論じるのとは全く次元の違う現象が進行しているように見える。選挙が終わっても社会の動揺がなかなか収まらないのもある程度やむを得ないのかも知れない。

 

    ジャカルタ州知事選挙とアホック発言裁判は外国メディアも珍しく大きな関心を示した。「穏健なイスラム社会に試練」「寛容さの終焉か」などという見出しもあった。ムスリムによるテロが重大な国際問題になる中で、世界最大のイスラム人口を擁するインドネシアの穏健さはジョコウィ大統領と会談する外国首脳が決まって口にする言葉だ。それだけに今回の一連の出来事は注目された。本当にイスラム社会は寛容さを失っていくのだろうか。

    イスラム社会の穏健さは歴史的にも文化的にも深い奥行きに支えられ、多くの試練を乗り越えてきた強さがあるように感じられる。しかし、国家の中に宗教をどのように位置付けて社会生活の調和を図るかという課題についての社会共同体としての経験はまだ比較的浅いように見える。社会的に未成熟だったスカルノ時代を除けば、その後のスハルト長期政権は経済発展が至上命題だったので、その遂行に支障となる政治・治安上の不安定要素は徹底して排除し、そのための強権的な監視機構を国の隅々まで構築した。

     特に宗教のような微妙な問題はそもそも社会に対立の芽が出る前に基本的に摘み取られてきた。そのため、多様性が本来不可避的に抱える利害対立を調整するプロセスをインドネシア社会はほとんど経験せず、従って利害調整の訓練を受ける機会も少なかった。社会が内部の水平的な対立を自ら調整、調和する機能を求められるようになるのは、改革の時代以降と言って良いだろう。そう考えると、現在生じている混乱や軋みは、宗教的な寛容さが不寛容に変化しているのではなく、社会がようやく自らの内部対立を克服するための試行錯誤の過程に入った兆候であると考えた方が現実に近いのではないだろうか。このプロセスを乗り越える時、インドネシアの一体性や寛容な社会は、より強靭性を高めて再出発するような気がする。(了)