第8回「ラマダンに入って」(生々流転vol.15)

       ラマダン(断食月)が始まった。ジョグジャカルタで暮らしていたころには、普段はイスラムと縁遠い生活をしていていたのに、ラマダンが始まると人々の暮らしの中から生まれる独特の雰囲気に新鮮な異国情緒を感じたものだった。

       ジョグジャカルタの下宿はオランダ時代の官吏の家柄だった。気品のある典型的なジャワ貴族の末裔という感じの老夫婦ふたりだけの、慎ましい暮らしぶりの家だった。稀に上品な伝統のバティックをまとって外出するが、毎日が昨日と同じように流れて行く日々のように見えた。

    話し方はいつも穏やかだし、年配の女中さんが時に笑ったり驚いたりする以外に大きな声も滅多に聞かない。その日常が少し変わるのがラマダンだ。まず静かな夜明け前の時間に人が立ち働く気配と食器などの音が聞こえる。普段はそうした生活音も目立たない家なので、断食前の食事の準備にすらムスリムとしての喜びを感じているかのようにその音が響いてくる。

     高齢者にとってラマダンは日中の陽射しだけでもきついと思うのだが、気のせいか表情にはむしろ張りがあって笑みもいつもより多く見えるのが不思議だ。ラマダン前の淡々とした日常がラマダンを迎えて急に色彩を帯びてくるように眼に映った。

 

    ラマダンの楽しみはやはり日没後の断食明けの食事のようだ。家族や友人らが集まって一緒に食事するにぎやかさは格別に違いない。インドネシア人の人と人との繋がりの緊密さはこんなところにもみなもとがあるのかも知れない。断食明けの食事を職場の同僚や仲間、仕事相手などとの親近感を育てる絶好の機会として活用するのは、ムスリムでない日本人の間でも少なくないようだ。

 

    ラマダンで思い出すことの一つに寄付の勧誘がある。インドネシアに来て日も浅く、日頃の信仰心の薄い筆者や若干の友人たちにとってはちょっとわずらわしい経験として記憶されている。

   ラマダンに入ると貧しい人たちのための色々な寄付が盛んになるようで、住宅地でも寄付を募って回る人が増えてくる。アラビア語で綴られたいかめしいレターヘッドを使った勧誘文書に隣組の会長らしき人物の署名があったりすると、これも近所付合いか、と思ってなにがしかの寄付をするのだが、そうすると次々に新たな勧誘者が訪ねてくる。

    インドネシアの友人に相談してもはかばかしい返事はない。どうもこの国の「貧しい人への寄付」は日本的な上から目線の「施し」とは少し違うのかも知れないとこんなことで気付き始めたりする。

 

    世界遺産のボロブドゥール寺院が国立公園として整備されるずっと前には、遺跡のすぐそばまで車で乗り付けることができた。当時はまだユネスコ国際連合教育科学文化機関)による修復が未だ始まっておらず、回廊の床は波打ち、レリーフを施された壁面も傾いたりしていた。

    ここを訪れたことのある人はご存知かと思うが、この遺跡は正方形に近い形の基層(一辺が115m)の上に5層の方形壇とその上にさらに3層の円形壇が積み上がった階段ピラミッド状になっている。車を降りてすぐの基層を登ると、その階段に何人かの「物乞い」が並んでいて、そのうちの一人が朗々と恵みを乞う言葉を歌うように語っている。いや、当時はまだよくインドネシア語も分からなかったが、あの堂々とした語り口はとても日本風の「施しを乞う」姿には見えなかった。観光客がお金をあげても一顧だにしないし口調に変化もなかった。

    想像するに、彼は「大遺跡観光の記念に喜捨の機会を与えて進ぜよう。あなたの旅行はより豊かなものになるであろう」とでも唱えていたのではないだろうか。もっともこの遺跡は仏教遺跡である。しかし中部ジャワの真ん中あたりのあの盆地には仏教徒とはほとんどいなかったから、彼もムスリムであったと思う。のどかな風景であった。

 

     いくつかの記憶の中で、ラマダンを迎えるインドネシアの風景にはいつも日本の大晦日と除夜の鐘を迎える時のような少しの慌ただしさと平和な空気、そしてお盆前の賑やかさが漂っていたように思う。今もそれは変わっていないのだろうが、今年またしてもラマダン前にイギリスでテロ事件が発生した。続いてインドネシアでも首都で死亡者が出る爆弾テロがあった。ラマダンはテロの季節と錯覚を起こしかねない事件が当たり前のようになっているのは残念なことである。(了)

第7回 『寛容な社会』の行先 (生々流転vol.12)

       前回、アホック知事の宗教発言が何故あれだけの反発を招いたのかという疑問について一つの視点を紹介した。他方で、そのイスラム社会の激しい反発を目の当たりにして、多くの人々が強い危機感を抱き、民族的な多様性の尊重を訴える運動が大きく盛り上がったのも事実である。
      その運動を支えたのは、知事の糾弾は「行き過ぎ」だと感情的にアホック擁護に立ち上がった人々や、「発言」をアホック候補の選挙攻撃用に使う相手陣営に対抗するために政治的に動員された支持者などなど。その動機や背景は様々だ。短期間でこんなにジャカルタを良くしたアホックを何故いじめるのだという素朴な意見はイスラム社会にも多かった。
      そうした様々な反応の中で、今回の事件は、イスラム社会の不満や怒りが噴出した一過性の事件、あるいは選挙という当面の政治目標を達成するだけの出来事では終わらないのではないか、もしかしたら「多様性の中の統一」という国家の標語に示された民族と国家の一体性を揺るがす動きに発展するかも知れないという懸念が新聞や雑誌の評論では数多く表明されていた。そこで今回は、前号で示したイスラム社会からの視点とは逆の立場、イスラム社会という旗を掲げて行われた運動に対して民族の多様性を守る立場の人々が抱いた危機意識がどういうものかについて少し考えてみたい。

 

    アホック知事を糾弾する運動が激しく盛り上がっていた頃、モボクラシーという聞き慣れない言葉が頻繁に使われた。群衆や暴徒などを意味するモブと、民主主義のデモクラシーの合成語で、イスラムを冒涜したと怒ったイスラム団体らが、アホック氏を逮捕しろなどと要求をエスカレートさせていることに危機意識を募らせた人たちが使い始めた。

    スハルト政権以降で最大規模に発展した抗議行動は、過去の略奪、暴動の悪夢を呼び起こし、政府はこれを放置すると経済や外国投資にも影響しかねないとしてデモ隊側の圧力に屈するような形でアホック氏を容疑者に認定した。またアホック裁判では、検察側が立件できないと判断して罪状に含めなかったにも拘らず判事が宗教侮辱罪を職権で認定、検察の求刑より重い量刑を言い渡した。この判決には、デモの激しさに判事が脅威を感じたからではないかという意見が識者の間からも聞かれた。

   ムスリムの全てではないにせよ、イスラム社会の意思だという旗印を掲げて実力行使の大きな運動を展開したら、それは巨大な圧力となり、法律を飛び越し有無を言わせずに政府を動かしてしまう、そういう国に向かう端緒にこの事件はなるのではないか、という危機意識がモボクラシーの言葉には込められている。人口の85%がムスリムという現実の重さは、民主主義や法治国家の原則をも押しのけかねない潜在的な圧迫感を人々に与えるのであろう。

       ジャカルタイスラム大学元学長は、ジャカルタ知事選挙に関する論評の中で、「大衆に迎合してトランプ氏が大統領選挙に勝利したのだからムスリムが圧倒的多数の国でイスラム迎合主義が勝利しないはずがない、今回の勝利はイスラム迎合主義の始まりとなる」と考えるアニス次期知事支持者が存在すると述べている。やはりアホック事件で広がった危機意識には根拠があるのだろうか。

 

     外国に目を転じてみよう。独裁政権やカリスマ指導者の国が急に民主主義国になると、国家統一の理念よりも宗教や種族などの身近な利害が国民の行動基準になって国が混乱する例が多い。古くはユーゴスラビア、その後も「アラブの春」の国々など枚挙にいとまがない。

   インドネシアでは、スハルト大統領が退陣して改革の時代になった時、「自由」というパンドラの箱が開き、国民はみな好き放題に権利を主張し始めた。それまで厳しく規制されていた労働組合はタガが外れたように工場を占拠し高速道路を封鎖して大幅な賃上げを要求したし、美しい保護林だった森は住民の野放途な違法伐採であっという間にはげ山になった。当局は法の執行に躊躇(ちゅうちょ)した。地方自治体の権利主張も激しかった。

     そんな中でイスラムのコミュニティーの自制が目を引いた。イスラム社会で尊敬されていたワヒド氏が大統領に就任したことも作用しているかも知れないが、イスラム社会のエゴの主張は驚くほど少なかったと思う。当時の国内状況を考えれば誇るべき穏健イスラム社会と言って良いだろう。しかしその後は徐々に、イスラムの戒律を踏まえた条例が地方自治体で導入され始めたり、国内のイスラム少数派や異端と見做された教団への暴力や迫害が増えたりしている。ムスリムの周辺住民から同意を得られずにキリスト教会が建設できないなどのトラブルも多発している。こうした状況の変化を背景にして「寛容と融和」の社会が少しずつ変容しているのではないかと感じる人も増えていた。

    そういう中での今回の事件であった。一部かも知れないがイスラム社会の中に、融和よりもイスラム社会の要求を意識的に優先する力が強くなっていると受け止められたのであろう。その懸念に現実感を与えたもう一つの原因はアホック糾弾集会を主導したのが暴力的な強硬イスラム組織だったことであろう。断食月に営業中のナイトクラブを襲撃、破壊していた団体で、思想的にはこれまで議論がタブー視されていた建国の5原則に異論を唱えている。これとは別にイスラム国家建設を明確に標榜する団体の活動も問題になっている。イスラムのスカーフを着用する女性が増加していることでインドネシアイスラム化を論じるのとは全く次元の違う現象が進行しているように見える。選挙が終わっても社会の動揺がなかなか収まらないのもある程度やむを得ないのかも知れない。

 

    ジャカルタ州知事選挙とアホック発言裁判は外国メディアも珍しく大きな関心を示した。「穏健なイスラム社会に試練」「寛容さの終焉か」などという見出しもあった。ムスリムによるテロが重大な国際問題になる中で、世界最大のイスラム人口を擁するインドネシアの穏健さはジョコウィ大統領と会談する外国首脳が決まって口にする言葉だ。それだけに今回の一連の出来事は注目された。本当にイスラム社会は寛容さを失っていくのだろうか。

    イスラム社会の穏健さは歴史的にも文化的にも深い奥行きに支えられ、多くの試練を乗り越えてきた強さがあるように感じられる。しかし、国家の中に宗教をどのように位置付けて社会生活の調和を図るかという課題についての社会共同体としての経験はまだ比較的浅いように見える。社会的に未成熟だったスカルノ時代を除けば、その後のスハルト長期政権は経済発展が至上命題だったので、その遂行に支障となる政治・治安上の不安定要素は徹底して排除し、そのための強権的な監視機構を国の隅々まで構築した。

     特に宗教のような微妙な問題はそもそも社会に対立の芽が出る前に基本的に摘み取られてきた。そのため、多様性が本来不可避的に抱える利害対立を調整するプロセスをインドネシア社会はほとんど経験せず、従って利害調整の訓練を受ける機会も少なかった。社会が内部の水平的な対立を自ら調整、調和する機能を求められるようになるのは、改革の時代以降と言って良いだろう。そう考えると、現在生じている混乱や軋みは、宗教的な寛容さが不寛容に変化しているのではなく、社会がようやく自らの内部対立を克服するための試行錯誤の過程に入った兆候であると考えた方が現実に近いのではないだろうか。このプロセスを乗り越える時、インドネシアの一体性や寛容な社会は、より強靭性を高めて再出発するような気がする。(了)

第6回「ムスリムが抱く恐怖心」(生々流転vol.10

       長いジャカルタ州知事選挙だった。選挙戦直前にアホック知事がイスラム聖典を引用したスピーチを行った後、あの発言は宗教の冒涜(ぼうとく)だと大騒ぎになってから半年余り、最後まで宗教に揺れ、宗教が勝敗を分ける選挙だった。

      決選投票では、有権者の7割以上が評価する実績を武器にして論戦を挑む現職知事に対して、閣僚としての行政経験もありインドネシアを代表する若手知識人の挑戦者が正面からこれに応じたため、インドネシアでは珍しく見応えのある論戦が展開された。

   現職知事として前回選挙での約束をどれだけ実現したかと追求したり、挑戦者の公約に果たして予算上の裏付けがあるのかと検証したりと、今後の選挙でもこうした論戦が引き継がれれば、この国の民主主義や地方自治の将来にとって大きな意味を持つだろうと期待されたが、結局は人種や宗教などの伝統的な要因の方がまだまだ大きな集票力を持つことが得票結果から明らかになってしまった。

 

    それにしても、あのアホック発言になぜ有権者はあれほど大きく燃え上がったのだろうか。ムスリムは圧倒的な多数派なのだから、もっとどっしり構えることはできなかったのか。

    発言が選挙キャンペーン向けの扇動に利用されたことは明らかだが、有権者の心の中にもそうした扇動に反応しやすい土壌があったのではないか。それは何なのか。外国人の門外漢が外国の宗教問題について語るなど不遜極まりないが、インドネシア理解のひとつの試みとして、批判覚悟で敢えて有権者イスラム的な心情について考えてみたい。
    結論的に言うと、この国のイスラム社会が、国の為政者や権力者から不当な扱いを受けてきたという、ある種の被害者意識を抱えているために、外部からの批判や圧力に過剰に反応する心理状態を持つに至ったのでないかということである。二つの歴史的な事例を指摘してみたい。

 

     ハビビ元大統領が故アイヌン夫人との一生を綴った本(後に映画化されて大ヒットした)の中に、スハルト政権初期のアラムシャ元官房長官がハビビ氏に語った言葉が紹介されている。「独立前は、インドネシア人は自らをムスリムと認めることに羞恥(しゅうち)心を持っていた。独立後も、彼らはムスリムと認めることに恐怖心を抱いてきた。そして(ハビビ氏がイスラム知識人連盟を創設してようやく)インドネシア人は自尊心を持って自らをムスリムと名乗るようになった」。

    この発言はおそらく1990年頃のものであろうと思われる。軍事的にも文化的にもオランダの支配下にあった独立前の羞恥心はともかく、独立後はスカルノ初代大統領の下で「第3世界」のリーダー、スハルト政権では開発政策の成功により、「アジアの奇跡」を引っ張る新興国の一員として世界に認められていた。ムスリムインドネシアで9割近くを占める圧倒的多数である。その「大国インドネシア」の主人公であるムスリムがなぜ恐怖心を抱かねばならないのだろうか。

 

    第2次世界大戦の末期、独立宣言を前にした憲法議論の中で、大きな焦点のひとつとなったのがイスラム教を国家の中でどう位置付けるかということであった。厳しい議論を経て、イスラム教を国教にせず、宗教の自由を国家統治の基本原則のひとつに据えることが最終的に決まった。多種多様な国民からなる国家の民族的な融和と統一を最優先した結果であると言われる。

    未だに多くの国で宗教や人種の違いが原因で国が分裂し、戦争や紛争が絶えない世界の現実に照らして考えると、インドネシア建国の指導者達の英断には驚くばかりである。もし「イスラム国教」を選択していたらこの国の歴史は全く違っていただろう。しかし、国民の85%を占めるムスリムにとっては、いかにインドネシア民族の団結と連帯のためとはいえ、苦しい選択であったに違いない。ムスリムが人口の6割ほどの隣国のマレーシアがイスラム教を連邦の宗教にしていることを見るにつけ、自己犠牲とも呼べそうなこの宗教上の決断は深いものがある。

 

    しかし当然のことながらイスラム社会の中にも様々な考えがあり、イスラム国家という宗教的な理想を放棄することを潔しとしない人々も少なくなくなかった。彼らはイスラム国家建設のため武力闘争に訴えた。これは国の基盤が未だ不安定だった新生インドネシアにとっては独立が空中分解しかねない重大な反逆行為であった。

    これ以降イスラム国家を志向する考えは国家の存立を揺るがす危険思想という烙印を押され、更には宗教的な主張を政治の世界で強く訴えると、イスラム国家的な考えの持ち主ではないかと疑われる雰囲気が生まれた。国が安定し人々の生活にゆとりが出始めてからも、政府は宗教と政治を切り離すことに腐心し、それを支える厳しい監視社会が長く続いた。敬虔なムスリムにとってはある意味で重苦しい社会であったろうと思われる。

    これが冒頭の「ムスリムの恐怖心」のひとつの背景ではないかと思う。建国から独立戦争、そしていくつかの歴史的岐路で大きな貢献を果たしてきたと自負するムスリムにとっては、この現実はいかにも不合理なことであったろう。民族国家という舞台の主役どころか、舞台で自由に振舞うことすらはばかられるという意識が浸透したように思われる。

 

    スハルト政権下の経済は世界銀行が「アジアの奇跡」と称賛した8ヶ国の一角を占めるほどの目覚ましい発展を遂げた。独立後の長い政治混乱を乗り越え、ようやく人々が都市を中心に豊かさを享受できる時代が到来したのである。

    しかし多くの国民の間には、「発展に取り残された都市と農村の一般大衆」という感情が残っていた。経済指標は経済の底上げも示していたが、庶民感情は別なところにあったと言える。豊かさを最も享受しているのは誰か、一握りの有力者と非イスラム教徒の(華人系)財閥ではないかという不満である。

    彼らにとって「発展に取り残された一般大衆」 とは「貧しいイスラム大衆」と同義語として語られていた。政府のいわゆる「経済開発の成果の滴り理論」に対して建国の理念である「民族経済」が根強く支持されていた。独立でオランダ人は主役の座を去ったが、次の主役となった指導者層の下でも相変わらず一般国民の利益は後回しにされている、一般国民(イスラム大衆)はいつ自分の国の主役になれるのか、という意識であろう。

 

     以上のようなイスラム感情について、私の個人的な印象を述べさせて頂くと、スハルト大統領の退陣を受けて「改革の時代」が到来し、しばらくの混乱を経て安定した政治と経済回復が実現した時に、そうした感情は徐々に過去のものとして語られるようになるだろうと私は思っていた。政治が開放され、財閥は相変わらずだが中産階級が大きく存在感を示すようになったことが大きな理由だ。自動車も化粧品もファッションも、テレビ・コマーシャルの大きなターゲットは今や普通のインドネシア人だ。

    それだけに今回のジャカルタ知事選挙で未だにイスラム社会が容易に扇動に乗るメンタリティーを色濃く残していることには改めて問題の根深さを感じさせられる。しかし別の見方をすると、非ムスリム華人系の指導者が宗教的な失言をしたにもかかわらず、イスラム指導者を含めた多くの国民が国民の多様性と融和を守るべしと立ち上がり、国民的な運動が起きたことは大きな変化ではないだろうか。

    比較としては適切でないが、過去には些細な原因で反華僑暴動が発生したことを考えると、社会の成熟は明らかのように見える。むしろ宗教や人種問題を誘発しかねない経済格差や社会の歪みを放置することはできない現実を政治エリートに再認識させる良い機会になったかも知れない。(了)

第5回「優しいインドネシア語」(生々流転vol.9より

      インドネシア語は難しいか、それともやさしいか。インドネシア語と数十年も取り組んできた先輩がいまだに、完璧だと自信が持てるインネシア語を書くのに苦労していると述懐するのを聞いたりすると、その難しさを想像してため息が出る。

    インドネシアのように歴史ある文化の中で育った言語であれば、その言語もきっと微妙で奥行きのある発展を遂げているのだろうと私も思う。しかし、少なくとも初心者にはこれほど入りやすい言葉はないだろうというのが私の率直な感想だ。おそらくインドネシアに赴任してインドネシア語を勉強したことのある人の多くは同じような印象を持っているのではないだろうか。

 

    今はマンションやアパートメントに住む人が圧倒的に多いが、かつては一戸建ての家を借りるのが外国人にとって一般的だった。初めてヒルトンホテル(現在のスルタン・ホテル)の敷地内にマンションが建った時には、ジャカルタの発展と近代化を改めて実感したものだ。当時の上司がそのマンションに移ろうとしたが、規定の住宅手当では全く足らずあきらめたのを覚えている。その頃はマンションなどの数は限られていたし、借料も一軒家の方がずっと手頃だった。

    しかし一軒家に住むとどうしても数人の使用人が同居することになる。お手伝いさんの他、庭や家回りの修理やそうじなどを行う男手も必要になるし、(当時は人件費も安かったので)運転手を雇えば、家の中には常時複数のインドネシア人がいることになる。家事や外出の際の言付けなど必要最小限の接触に限っても、彼らとのコミュニケーションにインドネシア語は欠かせない。突然の停電や雨漏りがあれば、その対応で身近にいる使用人との会話は不可避だ。駐在員が代々続いた家には日本語の上手なお手伝いさんがいることもあるが、それはむしろ例外だから、ジャカルタで生きていくにはインドネシア語は「必需品」だった。

 

    その頃にインドネシアに初めて駐在員を送り出した会社の管理部門から出張してきた人に会ったことがある。日本料理屋は数えるほどで、日本食品の専門店など期待できない時代だから、子ども連れの若夫婦、とりわけ夫人の苦労はいかばかりかと心配になって様子を見に来たのである。

    旦那は社命を受けての赴任で覚悟もできているだろうし、会社では仕事で時間が過ぎていく。しかし言葉も習慣も日本とは大きく違う環境の中で突然生活することになり、家事と子育てを任された夫人はどのような時間を過ごしているのか。赴任から数ヶ月、そろそろ我慢の限界に達しているかと思いきや、自宅を訪ねたその人は、夫人が奇妙な外国語(インドネシア語)を駆使して使用人に次々に指示をしている姿を見て驚き、安心したと言う。 

    その夫人の語学力の向上は、本人の必死の勉強の成果であろうが、インドネシア語自体が「初心者に優しい言葉」であることも少なからず貢献していたと思う。多くの外国語のように、発音や文法などの入り口でつまずくことはまずない。文法などは融通無碍過ぎて心配になるくらいだ。インドネシア語の教科書みたいな話で恐縮だが、例えば、「彼は遅れて来た」と言おうとする。「彼」(dia) と「遅れて」(terlambat)と「来た」(datang)の3つの単語だけの文章だが、この3つをどういう順番で言っても大丈夫だ。しかも現在形か過去形か、あるいは未来形かなどと面倒なことを考える必要はない。何より外国人にとってありがたいのは、仮に多少インドネシア語がおかしくても、相手のインドネシア人が気持ちよく喜んでくれることだ。インドネシア語は「易しい」だけでなく、「優しい」言葉なのだ。

 

    外国に行った時に、土地の言葉を知っているかどうかで楽しみ方が随分と違うとよく言われる。これは旅行でも赴任でも変わらない。先の夫人も恐らく新しい言葉に慣れるにつれてこの国の見え方が変わっていったことだろう。とにかくインドネシア語は極端に言えば習い始めた途端に使える。単語を10個覚えたら、目の前に10個分の世界が広がってくる。20個習えば、周りの世界が更に広がる便利な言葉だ。

     間違いを気にせずに近くの人とコミュニケーションが出来るのは、初めての外国暮らしの人間にはありがたいことだ。念のためにひとつだけ、当時と今との大きな違いを付け加えると、当時は多くの場合、インドネシア語を話す相手が家庭内の個人的使用人であったり、勤め先でも日本人が管理職で身分上も上位であることが多かったが、現在は必ずしもそうでないということだろうか。

 インドネシア語では、話し方によって、話し手と聞き手の上下関係が微妙に、しかしかなりはっきりと現れる。インドネシア人も時に相手が年上か、社会的地位はどうか、などに気を使っている。友人や同僚が相手の時には、そういう気持ちを忘れずに話すことの方が、言葉が上手いか下手かということより重要かも知れない。

 

     東南アジアに進出した企業からの法律相談などを行っている弁護士の講演録を読む機会があった。それによるとインドネシア関係で扱う社内不正や労務問題のトラブルの多くは日本人の駐在者が積極的に従業員とのコミュニケーションを図っていれば大きな問題にならない可能性が高い、と指摘されている。

     組織の問題であるから個人のコミュニケーションのように単純な話ではないであろう。しかし個人的にインドネシア人と多少でも交流があったり、あるいは日常会話の経験がある人の方が、仕事上のコミュニケーションも自然に進むのではないだろうか。しかもインドネシアの人達はフランクな付き合いを大事にするし、日本式に言えば「顔が繋がっている」かどうかで物事の進み方に大きな違いが出るとよく言われる。

     

外国人向けのマンションなど居住環境やその他の理由によって「インドネシア」との接点が少なくならざるを得ない事情もあるかも知れないが、もし「優しいインドネシア語」をまだ活用していない方がおられるとしたら、それは随分ともったいないことかも知れない。

第4回 「友好の指定席」(生々流転vol.7)

    「様変わりだね~、見る影もない」。1970年代の終わりころにジャカルタで一緒だった日本人の友人が、十数年後に現地を再訪し、変貌した街並みを見て、そうもらした。その一言がなぜか頭に残っている。

    その友人がジャカルタにいた頃は、独立広場から南北に伸びる幹線通り沿いでもベチャという人力車が走り回っていた。今のヌサンタラ・ビルディングの最上階からはジャカルタの街がさえぎるものなく一望でき、遠く北にあるスンダ・クラパの港まで見渡せるほどだった。

   ときは「国家開発の父」と諸外国からも賞賛されたスハルト大統領の全盛期だった。経済の成長は目覚ましく、その後の十数年で新しいビルやホテルが林立するなどジャカルタの風景は一変していた。友人の驚きは想像に難くない。ただそれを驚嘆すべき進歩と見るか、見る影もないと否定的に受け止めるか。ひとの印象は様々だ。

 

    私は昨年の夏、久しぶりにジャカルタを再訪した。その時の印象を書きませんか、と「生々流転」生みの親、宮島さんから誘われた時、最初に頭に浮かんだのはこの「見る影もない」という友人の感想だった。私は1992年に最後のジャカルタ勤務を終えた後も断続的にインドネシアの地方都市に勤務したが、今のジャカルタは別世界のような変わりようだ。

   5年ぶりのジャカルタの宿泊先はケンピンスキー・ホテルだった。日本の戦後賠償により、スカルノ大統領の時代に建設されたインドネシアで最初の近代的な、ホテル・インドネシア(HI)という名のホテルが、半世紀近く経ってからリノベーションされ、高級ホテルに蘇ったことは知っていた。

    ただ、泊まるのは今回が初めてだ。内装や客室は完全に改装され全く別のホテルと言って良い。かろうじて、外観に昔のHIの名残を残している。スカルノ時代にはこのホテルの最上階にあるサパークラブがデウィ大統領夫人らこの国のセレブが集う最も華やかな社交の場だったそうだ。想像を広げると美しい照明の中を流れる音楽やゲストの会話の声が聞こえそうでもある。

   しかし1974年に赴任した私が先輩からその頃の様子を聞いた時には、HIに昔日の面影はもうなかった。すぐ近くに日航プレジデント・ホテル(現プルマン・ホテル)がオープンしていたし、スハルト政権下の高度経済成長と軌を一にするようにしてその後もサリパシフィックやマンダリンなど日系、外資系のホテルが次々に進出し、それに反比例するようにHIの明るさはかげっていったからだ。

 

    HIの歴史は日本とこの国の歴史の一面を物語っている。日本の戦後賠償で誕生し、新興国特有の贅沢で華やかな世界を象徴する憧れの場所として、数々のビジネスや政治の舞台となったが、その後は全般的な経済活動と生活水準の上昇につれてその存在は薄れていった。

   その経済発展を支えた大きな中心のひとつは日本であったから、HIの輝きを奪ったのも日本だと言えないこともない。当時のインドネシアは豊富な石油に支えられた国家歳入が人件費などの経常的な支出でほぼ消え、インフラなどの開発予算は海外からの援助に依存していた。

    そのためにインドネシア援助国会議が毎年開催され、その中で圧倒的な比重を占めていたのが日本だった。会議開催前には大統領から全幅の信頼を得て経済運営を任された大臣が日本を訪問するのが恒例になっていた。投資も貿易も日本が当たり前のように第1位の相手国だったから、街には「日本」があふれていた。ある意味でいびつな関係だが、この国の人たちは日本の軍事占領下で経験した恐怖や数々の不愉快な出来事を胸にしまい込んで、福田総理が提唱した「心と心のつながり」という呼び掛けに、心を開き歓迎した。両国関係は円滑に推移した。

 

    人間関係もそうだが、こうした一方に偏った経済関係の上に永続的な友好を築くにはどうすべきなのか、という思いが当時の関係者の共通の課題だったように思う。少なくともお互いをパートナーとして感じられる関係は必要だということは分かるが、その道筋がなかなか見つからない。

   しかし今回、ケンピンスキーに宿泊してみて、そういう時代はとっくに過ぎ去っていることを実感した。このホテル自体が日本の国と無関係なところで復活しているし、周りを見ても数多のシンボリックなモニュメントに日本は関与していない。今や堂々たるG20のメンバーで、日本は多くのパートナーのうちの一国である。

    こうなると逆に「インドネシアに日本の指定席を確保したい」という考えが出てくるのも当然だ。そんな背景があるからなのだろうか、この国の発展の当然の成り行きとして民族主義的な気運が(特に経済政策面で)盛り上がると、感情的な反発の声が日本から上がることがある。「生意気だ」などという声すら聞こえる。特に過去の両国関係を知っている人たちには、「過ぎ去った良き日」が記憶から離れないのだろう。インドネシアを取り巻く環境が変わっていく中で、日本は「友好の指定席」を見出すことはできるのだろうか。

 

     翌朝、小型バスで訪問先に向かった。車窓からはスディルマン通りが見えているはずだが、体調不良と工事の遮蔽(しゃへい)の塀が重なってよく目に入らない。MRT地下鉄工事の真っ最中なのだろう。

     工事の進捗ぶりは帰国後も新聞や雑誌で知ることができた。最新のシールド工法が大統領始めジャカルタ市民の注目を集め、何よりも計画に沿って整然と規則正しく工事を進める日本企業の仕事ぶりへの高い評価はうれしい限りである。

    ジョコウィ政権は道路、鉄道、発電所その他のインフラ整備を精力的に進めている。晴れやかな落成式や工事現場の報道も多い。しかし実際は、計画性や責任感に欠ける事業も少なくなくないらしく、やはり日本の人と企業はディシプリンが高いとインドネシアの友人にほめられると誇らしい気分になる。

 

    この言葉には責任感や時には職業倫理の高さへの称賛も含まれているように思われるが、戦時中、インドネシア人に厳しい労働や訓練を強制した日本人兵士に対してすら、そのディシプリンを称賛するインドネシア人に出会うことがある。

    ディシプリンは日本人がこの国で贈られた最も古い称賛の言葉かも知れない。そのような認識が代々の日本人の努力によって受け継がれている。もしかすると、インドネシアにおける日本の「指定席」は、この言葉が入り口になるのではないかとも考えたりしている。

 

第3回「汚職天国をめぐる攻防」(生々流転vol.5)

      インドネシアには天国がふたつあると言われてきた。タバコ天国と汚職天国だ。

   タバコ愛好家が我が物顔で紫煙をくゆらせても許された時代は過ぎ去りつつあるが、汚職は全く衰える気配が見えない。今年に入ってからだけでも、県の幹部への昇進や人事異動で県職員から賄賂を受け取っていた県知事、牛肉輸入で有利になるように頼まれた判事など相変わらず多彩な汚職事件が次々と発覚している。

 

   それでも今月始めに明らかになった電子住民証汚職疑惑には、多少の汚職では驚かないインドネシア人もさすがに怒り心頭だろう。発端は国民全員が保持を義務付けられる住民票を電子化して旅券発給や健康保険などの行政事務を便利にしようと始まった国家的プロジェクトで、その予算は総額5.9兆ルピアと巨額だ。

    汚職撲滅委員会(Komisi Pemberantasan Korupsi, KPK)の捜査によると、なんとその約半分(今のレートでもほぼ2億ドル)を関係者みんなで山分けしようと企んで、事業受注会社の中心人物1人と国会の大物3人が黒幕となって采配したというのだから大胆極まりない。事業を主管する内務省の大臣・次官らの高官、国会では議長を含めて62議員、更にはプロジェクトの入札を管理する委員にまで金をばら撒く念の入れようだが、黒幕4人は抜け目なく分配金全体の半分近くの大金を懐にしている。
    その4人以外でも内務大臣の450万ドルを含めて100万ドル以上を受け取った人は10人以上もいる。日本の常識をはるかに超えた巨大な構造汚職だ。

       汚職撲滅委員会は2002年の設立から15年間で、立法府国会議員約50人、行政府では閣僚と州知事だけで約20人、司法の世界でも憲法裁判所長官らを逮捕している。官僚や市長・県知事、実業家の逮捕者は数知れずという有様で、「巨悪は眠らせない」東京地検特捜部も真っ青になりそうな八面六臂の大活躍である。

    汚職撲滅委員会はスハルト大統領の独裁的な(従って汚職体質の)体制が崩壊した後の自由・改革の時代に生まれたから、盗聴などの捜査から起訴まで強大な権限が特別法で付与されている。裁判も特別法廷だから摘発された汚職犯は高い割合で有罪になっている。「裁判も金次第」はここでは効かない。汚職撲滅を願う市民にはこれほど頼もしい存在はないが、濡れ手に粟の裏金を手にしたい人間には目の上のタンコブだ。

 

    バリ島のある村に消防自動車を寄付した時のことだが、その地の県知事に始めて相談に行った時には先方も大いに乗り気で喜んでくれたのに、打ち合わせを重ねて計画が煮詰まるにつれて何故か知事の態度が消極的になって困ったことがあった。どうやら汚職撲滅委員会の目が恐ろしいのだと分かり、決して汚職と疑われるようなプロジェクトではなくて村民やバリの文化財を守るために必要なのだと知事を説得し直すのに苦労したことがある。ことほど左様に汚職撲滅委員会の存在は怖い存在になっている。 

   ところが実際には汚職は無くならない。なぜだろうか。いつだったか汚職で有罪判決を受けた女の囚人が、刑務所でエアコン付きの部屋にソファーなどの家具を持ち込み、週に2回は美容師を呼んでいただけでなく、週末には自宅に帰っていた実態が明らかになったことがある。文字通り「別荘」生活だ。大物の汚職囚人にとっては、今も実態はさほど変わってないらしい。

   おまけに過去3年の汚職裁判の判決は統計的に刑期が短くなっている。これでは刑期が明けるのを待って、隠しておいた収賄の金をゆっくり使おうと考える不届き者が現れるのも分かる気がする。彼らにとっては捕まるリスクより、金の魔力の方が大きいのだろう。明日は我が身と思っている人たちが、刑務所での「待遇」を本来の厳しい環境に戻すのを阻んでいるのではないかと勘繰りたくもなる。

 

    汚職をめぐるこの国の政治や国民意識については、日本との比較でも興味が尽きないが、この国ではメディアやSNS、学者や市民団体など実に多くの人が汚職撲滅のための行動を執拗に続けている。その熱心さ、そして多数の国民がそれに力強く呼応している姿を見るといつものことながら感心してしまう。

   そればかりでなく、この国の政治エリートが多くの場合こうした国民の声に対して辛抱強く対話優先の態度を取っている。内心では苦々しく思っているのだろうが、世論を置き去りにして多数で押し切ることは滅多にない。

    時にいつまでも堂々巡りの議論を続けているような焦れったさを感じることもあるが、この汚職をめぐる市民と政治エリートのやり取りがこの国の新しい伝統になっているのかも知れない。そんなことをつらつら考える時、オランダの植民支配から脱却するために、武力では圧倒的に劣る戦いを兵士だけではなく全国民の団結で補ったという独立戦争への自信と誇りに似た感情がそうした姿勢の背景にあるのではないか、そんな思いがふと頭に浮かぶのだが、それはいかにもインドネシアに肩入れし過ぎた考えだと言われるかも知れない。

 

第2回「宗教・人種が共存する風景」

       ジャカルタの知事選挙は嘆かわしい誹謗中傷、ブラックキャンペーンの嵐だったようだ。これだけ激しく遣り合うと住民の間に生じた亀裂はどうなるのか心配になってくるが、インドネシアで宗教や人種・種族が話題になるとふと想い出す光景が幾つかある。

 

       その一つはスマトラ島の北部にあるトバ湖だ。世界最大級のカルデラ湖で、湖の中に浮かぶサモシール島が琵琶湖とほぼ同じ広さという広大な景色である。スマトラの脊梁、ブキットバリサン山脈の奥深く、海抜900メートルのところに位置している。

      トバ湖を生んだ大噴火はその火山灰で世界の気温を数十年間にわたって平均5度も下げるほどの巨大規模だった。その急峻な山岳に阻まれてイスラム教の浸透が遅れたために、バタック族に属するこの地域の住民はほとんどがキリスト教徒だ。そのため湖から外輪山に向かう傾斜地には緑の草原を背景に瀟洒な教会が見えたりする。その景色はスイス高原地帯の絵葉書のようだ。

   そのトバ湖からマラッカ海峡の方角に山道を下ると、熱帯雨林を越え、次いでパーム椰子農園の間などを進むことになるが、そこを過ぎる辺りから、キリスト教会ばかりだった景色にイスラムのモスクが増え始める。

   シアンタールという町まで下ると、キリスト教会とモスクが同じように散在している。その昔、イスラム教徒とクリスチャンがこの辺りで初めて遭遇した頃はどうだったのだろうか、やはり大きな諍いが起こったのだろうかなどとと想像するが、その町にある大学の教授は今は穏やかに共存していると静かに話していた。

 

   次に想い出すのはフローレス島だ。バリ島の東方に連なる小スンダ諸島の一つで、島の中部の山頂近くに色の違う湖が3つ並んでいる。上空を通過する飛行機からも良く見える。

  独立運動を主導したスカルノ初代大統領がオランダ植民地政府によって流刑された場所としても有名だ。30年以上前になるが、スカルノが流刑時に住んでいた家を訪ね、中を見せてもらったことがある。何の看板もない普通の民家だったので、私が見たのは実は隣の家だったのではないかと今も密かに疑念が頭をかすめたりする。

   フローレス島は長野県とほぼ同じ広さだが、東西に長いので南海岸にあるスカルノ流刑地のエンデから北海岸のマウメレの町までは距離的には短い。先述の3色湖はその途中にある。

   翌朝マウメレに向かう私に、ホテルのスタッフは昼頃には着くと請け負ったが、実際には夕方まで掛かった。小さなバスは恐ろしげな崖っぷちを縫うように進み、点々と存在する村をつないで行った。

   今日のテーマとの関係で興味深かったのは、現地の人が、ひとつ向こうの村に行ったらもう言葉は違う、と話していたことだった。狭い島だから、ひと山越え、谷を渡ったらもう種族も別ということらしい。

  資料によれば、この島には8民族、6言語があると記録されているから、実際にはそれほどではないだろう。ただ、のどかな起伏に富んだこの小さな島の中ですら、複雑な文化のヒダが織り込まれていると考えると、多様なインドネシア社会の奥深さを感じさせられたものだ。

 

   インドネシアの学校では子どもたちが「多様性の調和」を称える歌を良く唱和している。この国の人たちは、この調和に至るまでには長い争闘の歴史と多くの犠牲があったことを、父の語りを聞くように幼少時から耳にし、実感として体得しているのだろう。

    植民地時代にインドネシア各地の青年たちが集まって、「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」と宣言したのは約90年前、その実態は祖国も民族も言語もバラバラだったからこその宣言だった。独立後もイスラム国家建設や各地域の分離独立を巡る武力衝突が起きている。少しでも気を抜いたら「一つの国家」は崩壊すると警戒させる事件はその後も続いた。

    世界では今も内戦や国の分裂が起きているが、インドネシアにとってそれは他人事ではないに違いない。それ故に「多様性」とか「調和」「寛容」などの言葉でインドネシア人が感じる意味合いは、それを歴史的な知識としてしか知らない外国人とは次元の異なる深さがあるのだろうと思う。

    それにもかかわらず今回の選挙で発生した騒動は一体何なのだろう。大事な社会の一体性を危うくすると誰もが分かっているはずなのに、どんな事情が背景にあるのだろうか。政治がらみの要素が大きいようだが、この国のファンの一人としては、多少でもインドネシアの心情を理解できないだろうかと思いを巡らせてみたりしている。