第15回 「選挙と社会の行方」

       民主主義は目的地ではなくプロセスそのものであるとよく言われる。国民が理想と考える国のあり方を実現するためのプロセスを民主主義と呼ぶのであれば、それぞれの国の事情や時代状況によって民主主義に様々なバリエーションが生まれるのも理解できる。

 

    インドネシアは独立から72年、スカルノ時代にも、あるべき民主主義について侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論があった。選挙が定期的に行われるようになってからだけでも様々な試行錯誤が行われ、今に至っている。選挙は、民主主義の最も基本的な装置であるから、その時々の世相や政治社会状況が反映されるが、インドネシアの人たちはその選挙に揶揄や不満やらの気持ちを織り込みながら、様々な名前をつけているのが面白い。

    スハルト時代の6回の総選挙は「パンチャシラ民主主義のお祭り」と位置づけられ、文字通りの「管理選挙」だった。日本風に言うなら大政翼賛選挙とでも呼ぶのだろうが、スハルト大統領にしてみれば、経済発展のための資源と経験が限られた当時のインドネシアが一刻も早く先進国に追いつこうとするなら、欧米型民主主義による「衆愚政治」で無駄な回り道をしたりコンセンサス作りに多くの時間やエネルギーを浪費しているヒマなどないという気持ちだったのだろう。一種の「哲人政治」を目指したのかも知れないが、これも一つの時代の産物だったと言える。

 

     選挙を巡って様々な工夫や試みが自由に行われるようになったのは、やはりスハルト体制崩壊後の「改革の時代」になってからだ。絶対的な権力者の重しがなくなり、改革の熱気が収まるとまず現れたのが「親分選挙」だった。大親分の威令の下で抜け目なく影響力を蓄えていた番頭的な実力者や特に地方には多くのボスが存在していたので、自由な時代になって彼らが自己主張をしたのは自然な流れであったろう。村長や隣組長などの末端行政機構も彼らに有利だった。これと並んで選挙を支配したのが「金権選挙」だ。金権選挙の変形がアリババ選挙。頭はアリさん(インドネシア人)だが、本体はババさん(華人ビジネスマン)で、選挙資金の出処はババさんだ。

    こうした旧態依然の選挙に変化を与えたのが「人気選挙」「ビューティーコンテスト選挙」だろう。俳優や映画監督などの有名人が多数政界に進出し、著名な弁護士や市民活動家、評論家などと一緒に新しい選択肢を国民に示した。有権者には新鮮な選挙と映ったに違いない。 ただし彼らが政治家として有能かどうかは別問題で、その後には州知事や市長など実際の行政で成果を上げた行政官が注目されるようになった。「実績選挙」の登場だ。

     しかしいずれにしても候補者の客観的な評価は難しい。全体として「イメージ選挙」の色彩が強くなるのは避けられず、近年は広告代理店を含む選挙のプロ集団や組織を活用したイメージ操作に各候補者がしのぎを削っていると言われる。

 

     つい選挙の話が長くなってしまったのは、インドネシアの選挙もついにここまで来てしまったかという事件が露顕(ろけん)したからだ。警察の発表によれば、宗教や人種などの違いを煽動して憎悪感情や差別意識をネット上で拡散させることを商売にしていたグループが摘発された。このグループはジャカルタ知事選挙でも依頼を受けて「商売」していたことが明らかになっている。

    報道では、簡単に数千万ルピアの報酬が得られるぼろい商売らしいから、他にも多くの同業者がいるとみられている。ジャカルタ知事選挙では、ネガティブ・キャンペーンに金銭がばら撒かれていたという噂が広がっていたが、今回の摘発でそのことが証明されたことになる。末端の運動員や過激な思想に触発された支持者が「勝手に」やったと弁解して済む状況ではなくなっている。

 

    選挙運動に専門のプロが動員されるのはインドネシアでも普通になっている。しかしそれは、例えてみればビューティーコンテストで参加者の化粧や衣装に工夫を凝らしたり審査員に洒落た回答を返す練習をするのと同じで、候補者の能力や人物を有権者に訴えるプラスのイメージ活動であった。

    今回の事件はコンテストの舞台そのものを打ち壊しかねない犯罪だ。ジョコウィ大統領が、報酬を払った利用者も含めて徹底的な事件の解明を命じたのは当然だろう。

    しかし政府と治安当局が本腰を入れて取り組めば問題は解決するだろうか。選挙監視委員会は選挙費用が安価で済むネガティブ・キャンペーンはこれから増えると警告している。また当選が至上命令選挙運動員にとっては、「背に腹は変えられない」と禁じ手を使う誘惑に常に晒されているかも知れない。難しいところだ。

    来年の統一地方首長選挙、そして再来年の議会選挙と大統領選挙という大きな政治日程を控えて、早くも世の中はどんどん選挙モードが強まっていく気配だ。社会の亀裂がまた深まる方向に向かうのか、あるいは国民の連帯感や社会の寛容性がそれを押し返す健全さを見せるのか。直接の当事者ではない外国人としては祈るような気持ちでその進展を見守るしかないが、インドネシアの社会的文化的な弾力性(レジリアンス)は見た目以上にしなやかで力強いと信じたい。

第14回 「独立記念日に思う」

       毎年8月17日が近づくと町中が紅白の国旗で飾られ、様々な独立記念の行事で華やいだ雰囲気に包まれる。外国人である我々も少し心が浮き立つ気分になったものだ。今年の記念行事は例年の晴れやかさがさらに明るくなる趣向があったようだ。新聞やテレビが大きく伝えているので周知のことで繰り返しになってしまうが、やはりここでも取り上げておきたい興味深いニュースがある。

 

       独立記念日の前日、大統領は国会/国民協議会の議場に民族衣装で現れた。恒例の国政演説を全国民に向けて発信するためである。報道によれば民族衣装での独立演説は初めてとのことだ。大統領は翌日、大統領宮殿で独立記念式典を挙行した。会場には大統領以下の政府高官や招待客が民族衣装をまとって参集し、会場は華やかな雰囲気に包まれたと言う。

    特に注目されたのは、多くの政府高官が敢えて自分の種族でない衣装を着用したので、美しい民族衣装で彩られた会場は文字通りインドネシアの多様な文化が花開いたようだったとある出席者は評していた。ジャワ人のジョコウィ大統領は南カリマンタンの民族衣装を着ていた。式の最後には出席者のファッションの品評も行われるという演出の妙もあって、大いに盛り上がったらしい。ベストドレッサーには二アス族(西スマトラ)の民族衣装をまとったヤソナ法相(北スマトラのバッタク族出身)が選ばれた。受賞者らには大統領から賞品として自転車が贈呈されたというのも面白い。

 

    大統領はしばしば地方を訪問して住民との対話をしているが、その際に子どもたちを含む参加者を舞台に呼んで、クイズをしている。「インドネシアの州の名前を5つ答えなさい」とか、「パンチャシラを全部言いなさい」とかいう簡単な質問だが、正解すると自転車がもらえる。それでも間違える人がいて会場は笑いに包まれる。その後に大統領が、インドネシアはいかに広大で、いかに多くの言葉や文化からなっているかをかんで含めるように説明するのだが、その自転車を大臣クラスの受賞者への賞品に選んだところが心憎い。あたかも小学生でもわかる民族多様性のクイズにあなたも正解できますよね、と言われているようだ。二重、三重の絶妙な演出だった。

 

    懸案の選挙法がようやく成立してから、急速に政治ムードが高まってきた感がある。与野党の政党幹部が「あの政党は共産党と同じだ」と批判すれば、その政党の幹部は「そっちこそイスラム国家標榜の過激派を擁護している」と非難を返し、互いに警察に訴えている。

    ジャカルタ州知事選挙で受けた社会の傷をいやすべき時期に、党の幹部が亀裂を広げるような発言をしているようでは、末端の活動家はどうなるのだと多くの人が眉をひそめている。この国は社会の一体感を取り戻せるのだろうかという懸念が現実感を持って広がっている。そうした中での独立記念日とその記念式典だった。 

     独立という言葉が呼び起こす特別な民族感情にも助けられて、社会の多様性は敵愾心(てきがいしん)ではなく民族の豊かさの源だと気付かせる契機にしようとした今年の演出はまさに心憎いばかりであった。ある先輩が、インドネシアの政治には知恵者が多いし、それを可能にする舞台の奥が深いと感心していたことがある。そのことを改めて実感する独立記念日だった。

 

     総選挙と大統領選挙を再来年に控え、来年には有権者の半分近くを擁するジャワ島3州の知事選挙が行われる。これからは選挙モードが高まるばかりであろう。選挙戦が厳しくなれば、社会の調和を犠牲にしても安易な戦術に走るのは先のジャカルタ州知事選挙で見た通りだ。インドネシアの政治の奥深さや良識は次の選挙の試練に耐えられるのか。期待を込めて見守りたい。
(了)

 

第13回 「コメ問題にみるインドネシア」

       久しぶりにちょっと溜飲が下がる記事に出会った。そこには、「政府の補助金を受けた安いコメを一般の普通米と混ぜ合わせ、それに不当に高い値段をつけて販売した業者が摘発され社長が逮捕された」と報じられていた。しかもその会社はスーパーのコメ売り場でもよく目にする大手の精米・流通会社(IBU社)だ。
    コメは国民2億6千万人の主食だから、稲作農家と消費者の間で暴利を貪る中間業者は悪徳商人の代表のように見られている。私がインドネシア語のテキストとして使っていたインドネシアの小学生向け「国語」の教科書の中にも、貧しく無知な農民に金を貸し付けて収穫時にモミを安く買い叩く高利貸しが描かれていた。その高利貸しのことを教科書では吸血虫と呼んでいたように覚えている。

    そんな記憶もあったので、この事件では警察当局が悪徳商人にお灸を据えて、一罰百戒を狙ったショック療法をしたのだろうと拍手を送りたい気分になったのである。

    ところがその後、社会大臣があの会社は政府の補助米を使っていないと発言し、警察も「米袋の表示が中身の品質と異なる」と摘発理由が微妙に変わってきた。そのうちIBU社は農民から政府買い入れ価格よりも高い値段で買っていたので生産者には歓迎だったと報じられると、どうも「水戸黄門と悪徳代官」の構図とは少し違うのではないかという気配が漂ってきた。風向きが変わっているようだがたまに新聞を読むだけではなんだか分かりにくい。

 

 そもそも今回の事件の発端は消費者米価が高止まりしていることに庶民が不満を募らせていたことにあった。ジョコウィ大統領はテレビのインタビューでコメの価格は毎朝モニターしていると語ったことがある。庶民と同じ気持ちで毎日暮らしてますよ、というメッセージだったのかも知れない。それほどコメは庶民の象徴なのだ。

    国民総生産における農林水産業の構成比はスハルト政権初期(1967年)の5割以上から今や10%余りに落ちているが、それでもコメの値段は依然として国民の重大な関心事だ。ある評論家は、大統領から米価の高止まりを閣議で詰問されたので、大統領への忠誠心を示したい担当閣僚が警察と一緒に庶民受けする捕物を派手に演出したのだろう、と解説している。

 

    農業政策、なかんずく米価の問題は悪役一人に責任を負わせて済むような単純な問題でないのは言うまでもない。特にインドネシアのような大きな途上国では政治や国民感情などが複雑に絡み合っていて一筋縄ではいかない。政策面だけを見ても、耕作地0.3ha以下の零細農民と生産性の問題、巨額に達する農業補助金の複雑さと効率性、価格安定化のための組織であるべき食糧庁の限界、そして今回の流通の問題などなど、いずれも難問が並んでいる。驚くべきは、具体策の立案に欠かせない統計への信頼まで揺らいでいることだ。

     今回の事件の背景としてまずコメの値段、普通米の平均価格の変化を見てみよう。2014年にはキロあたり8,944ルピアだったのが、翌年に10,153ルピアに急騰、16年には10,750ルピアになったと報じられた。その後も、コメの収穫期などに多少の変動はあるが基本的にこの高値が現在まで続いている。国民の不満が鬱積(うっせき)して当然だ。

     ある農業専門家によれば、エルニーニョによる乾期の影響が懸念された2015年に農業省はコメの大幅増産実現の見通しを発表、統計局もそれを追認した結果、政府はコメの輸入の終了を発表した。しかしこの専門家による現地調査では実際の収穫は前年を下回っていたから、高値の基本的な原因は単なる需給のアンバランスだと指摘している。

     統計上の誤りが政府に誤った自信を与え、その自信が施策を誤らせ備蓄の判断をも遅らせたということらしい。インドネシアの農政、「日暮れて道遠し」の思いを深くする。

 

     政治家としては国民の心理に大きく影響する農業特に米作の問題での不手際を認めたくないだろう。もちろん中間マージンの問題があるのも否定できない。全国には18万ヶ所の精米所が存在するが、8%の大手精米会社が流通米の60%の精米を支配しているという話を聞いたりすると、米価の高騰で悩む庶民が怒りのやり場として「中間業者悪人説」に陥りやすいのも理解はできる。

     しかし先に見たように農業は地道で確実な施策の積み重ねが必要な分野のはずだ。誰がやっても簡単な問題ではないのだから、それをみんなで共有するところから出発せざるを得ないような気がする。間違っても、政治家がこの問題を単なる政治的なアピールや攻撃材料に使わないようにしないと、結局ツケは今回のように庶民に回ってくる。

     折からまだまだ先と思っていた総選挙と大統領選挙が、もうすっかり選挙モードに入ったように騒がしくなっている。しかもジャカルタ州知事選挙でみんなが反省したはずの、言いたい放題の非難中傷合戦がまたもやぶり返している気配だ。インドネシアの将来にとって大事な農業と農村と農家の問題が、この醜い選挙戦に巻き込まれて、それでなくても難しい問題なのに更に揉みくちゃにされてしまわないように祈るばかりである。(了)

第12回 「東ティモールを回想する」

       今回はインドネシアの隣国に関わることについて書いてみたい。2002年、21世紀になって世界で初めて独立した東ティモール民主共和国のことだ。

    東ティモールは、宗主国ポルトガルが1974年の政変で海外の植民地支配を放棄した結果、様々な独立の動きが加速して武力対立がエスカレートする中でインドネシアの武力介入を招き、結局併合されたという経緯がある。その後も東ティモールではインドネシア統治への抵抗運動とそれを弾圧する軍事作戦が続き、1991年には軍によるデモ隊への発砲で400人近くが死亡するサンタクルス事件も経験した。

   しかしスハルト政権崩壊後に就任したハビビ大統領が1999年8月に東ティモール独立の是非を問う住民投票を実施し、住民の8割の支持を得て独立が実現した。その時の混乱でも多数の死者が出た。ここではこの過程で私が知った2人の東ティモール人について記してみたい。

 

    私がRと初めて会ったのは、80年代の後半に彼が仲間1人と一緒にジャカルタ日本大使館に亡命した時である。大使館内で彼らを一時保護することになって、日々の生活の世話役を命じられたのである。当時、インドネシア政府は多くの東ティモール青年をジャカルタやバリなどに「国内留学」させて人的資源の開発に努めていた。
    この政策は抵抗運動が収まらない東ティモールへの懐柔策でもあったが、逆に彼らは新たな知見に触れて独立意欲を高めてもいた。皮肉なことに植民地時代のインドネシアとオランダの関係を彷彿とさせるところがある。亡命した2人は結局、インドネシア側の不逮捕の約束を得て大使館から自主的に退去したが、私はその後も内緒でRと連絡を取り続け、時々場所を変えながら市内で密かに会っていた。接触が間遠くなりしばらくしてから、インドネシア政府が亡命とは別件で彼を逮捕したと聞いた。

     私が次に彼と会ったのは、東ティモール独立後の首都ディリである。彼は独立後に第3政党の党首になったと聞いていた。久しぶりに会うRは、精神的な風格を備えているように見え、見違えていた。懐かしく旧交を温めた後、彼が人生を捧げた独立東ティモールで、彼は居所を転々とさせていると語った。独裁政権下で野党的立場の彼は生命の危険を背負いながら政治活動をしていたのである。

    会食中も部下が周辺を警護していた。また会おうと言って別れたが、一昨年彼は急逝した。長い闘争の生活だったが、その後、彼は国会議長や副首相なども歴任したので、祖国と国民の発展に貢献した実感を持って逝ったのではないかと思う。

 

    もう一人のSはジャーナリストである。私は、インドネシア統治時代の東ティモールサンタクルス事件の前と後の2回訪ねている。最初に東ティモールに行った時、彼はインドネシア青年委員会の東ティモール支部のリーダーだったように記憶する。

    インドネシアの「友好国」である日本の外交官としては、「インドネシアの官製青年組織」は「現地事情視察」の無難な相手先だった。そもそも完璧な軍事統制下で当局監視の目をかい潜って行動するのは、「非友好的」と見做される覚悟がないと難しい。サンタクルス事件後に再訪した時、一人で事件の現場となった墓地を訪ねてみたが、それだけでも翌日早速現地の外務省担当者に単独行動を控えるよう遠回しに注意された。

     Sはその後、東ティモール州選出の国会議員に選ばれた。ほとんどが平屋の州都ディリから国際的なメトロポリタンに変貌しつつあるジャカルタに初めて来た時、彼は眼を見張っていたが本当のところはどんな心境であったか私には分からない。彼の信ずる現地のカトリック教会組織はインドネシア統治を拒否する民衆の精神的な支えとして無言の抵抗を続けていた。
    他方で彼が国会議員として代表するインドネシア「27番目の州」は「併合の合法性」を象徴するものだった。彼とは何度も会食し交流があったが、彼の心の葛藤を聞くことは結局できなかった。彼は今、独立東ティモールでジャーナリズム活動を続けていると友人から聞いた。葛藤を整理したのであろう。

 

     今、東ティモールは見違えるように平和で豊かになったそうである。石油・ガスという天然資源に恵まれたことが幸いしているのかも知れない。インドネシアとの関係も悪くない。しかし、東ティモールの短い独立の歴史の中でなんと多くの人々が犠牲になって来たことか。今から振り返ると、やむを得ない歴史であったようにも見えるが、国家の意地が無用な遠回りをさせたような気がしないでもない。そんなことをつらつら考えるといつも私の頭に浮かぶ一つの光景がある。

    最初に東ティモールに行った頃は、インドネシアの併合に対する国際的な非難にも風化の気配が見え始めていた。訪問初日の夕食時、たまたま現地軍司令部の中佐と知り合った。現地のトップは大佐だったから、それなりの立場の人だったと思う。

    彼は翌日ヘリで東ティモールの東端の県を案内してあげると申し出てくれた。翌日のアポは即座に全てキャンセルした。パイロットと我々2人だけのヘリから見下ろす景色は刺激的だったし現地の見聞は貴重な経験だったはずだが、具体的にはほとんど記憶がない。

    鮮明に頭に残っているのは、ジープの助手席に乗ったその中佐が時々手を挙げる仕草をすることだった。何をしているのかと尋ねると、住民とすれ違う度にあいさつとして敬礼のような仕草をするのだという。無論住民があいさつを返すことはない。むしろ顔を背けている。しかし、こういう態度を地味に伝え続けることでしか、今の住民の気持ちを取り戻すことはできない、と中佐は静かに語った。

 

    サンタクルス事件の後、国際的な激しい非難の中で、東ティモールを管轄するウダヤナ軍管区司令官以下の処分が発表された。軍が任務遂行中の事件で処分されるのはおそらくこれが初めてのことだ。処分を伝える新聞記事の中にあの中佐の名前があった。「東ティモールの虐殺の歴史の加害者はインドネシア国軍」と割り切ってしまえばなんということはないが、一人ひとりの意思を超えたところで世の中は動いていくという感傷はなかなか拭えない。(了)

11回 「新たな『ブランタス・スピリッツ』を!」

  「ブランタス・スピリッツ」と聞いて、独立インドネシアが最初に挑んだ河川流域総合開発プロジェクトを思い浮かべられる人は、インドネシアに住んでいる日本人の間でも少数派になっているかもしれない。

    ブランタスとは言うまでもなくジャワ島東部、標高3000mを優に超えるアルジュナ山や活発な火山活動を続けるクルド山などの山塊の東側を源流とし、時計回りにこの山塊をほぼ一周してマドゥラ海峡に臨むスラバヤに至るブランタス川のことである。この流域は豊かな水と肥沃な土地に支えられて、古代からクディリ王国などいくつもの王国が興亡してきたところでもある。インドネシア最大のマジャパヒト王国の王都もこの流域にあった。

 

    この恵まれた水と大地が、洪水氾濫や噴火の脅威と背中合わせになっているのは自然の摂理としてやむを得ないことである。独立間もなくで、いまだ頼るべき産業を持たないインドネシアはこの潜在的な自然の恵みを人間の力でコントロールして一大穀倉地帯に再生させ、さらには近郊スラバヤ地区の産業用電力の供給源にしたいと考えていた。この期待に応えて日本の関係企業や政府が一体となって取り組んだのがいわゆるブランタス・プロジェクトだ。その始まりはスカルノ時代の1950年代にまで遡る。

    プロジェクトは火山噴火による流出土砂を制御する砂防工事、流域に沿っていくつも建造されたダムと発電設備、灌漑施設、河川改修や浄水施設等々、文字通りに総合的な取り組みであった。この壮大なプロジェクトの完成に向けて日本とインドネシアから集まった多数の関係者が力を合わせた技術者魂がブランタス・スピリッツと呼ばれている。この過程では、日本とインドネシアの技師ら7人が死亡する悲しい事故にも見舞われている。

    ブランタス・スピリッツを世に知らしめた背景には、このプロジェクトを通じて日本から技術の移転を受け経験を積んだインドネシア人技師らが、その後のインドネシア各地の水資源開発などで指導的な役割を果たしたという事実もある。日々の生活もままならない当時の、しかも都市から離れた不便な現場で、このブランタス・スピリッツを育んだブランタスマンとしての日本の関係者の苦労と気概の高さには敬服するほかない。

 

    ブランタス・スピリッツはひとりこのプロジェクトの関係者だけでなく、発展途上にあったインドネシアにそれぞれの夢を抱えて赴任した多くの人たちが共通して持つロマンをも象徴していたような気がする。私がジャカルタに最初に赴任した時にはすでに日本料理店が数軒あり、そこそこの生活をエンジョイできたから、残念ながらロマンとまではいかなかったが、それでもブランタス・スピリッツに勇気付けられた思い出は残っている。

    中部ジャワでの語学研修を終えて勤務についた私の最初の仕事は、インドネシア学生運動家や新聞記者、あるいは若手の国会議員などを相手にすることが多かった。当時は初めて本格的に外国企業へ門戸を開くことで経済が急速に活性化していた時期で、内政的にはスハルト政権が権力を集中している時期だったこともあり、彼らとの接触では、しばしば日本に対するステレオタイプの「経済侵略、エコノミック・アニマル」といった批判を聞かされた。

    急速に経済が発展すれば、一時的にある程度陰の部分が生まれるのは避けられない部分もあると思うのだが、独立の理想を性急に求める彼らにはそんな回りくどい説明を聞く気持ちの余裕などなかったし、そもそも彼らの最大の関心事は対日関係の是非よりも実はスハルト政権そのものに向けられていたから、こちらの説明には最初からあまり興味がなかったのかもしれない。

    そんな中で日本のインドネシアへの関わり方は正しいはずだと基本的なところで自信を持てた一つの支えは、このブランタス・スピリッツが議論の余地なく現実にそして身近に存在していたからだった。もちろん、「ブランタス・スピリッツ」という言葉はカランカテス・ダムの竣工式にスハルト大統領が祝辞で最初に使ったそうだから、インドネシアの人々に広く伝えられていたのは間違いない。

 

    今、日本のインドネシアへの関わり方には、かつてのようにインドネシアの国づくり全体をインドネシア側と一緒に背負い込むようなような意気込みはもちろんないし、それはとてもできることでもない。インドネシアを取り巻く国際環境も国内事情も根底から変わっている。

    日本とインドネシアとの間には新しい関係が形作られる時期にあるようにも見える。企業環境も厳しくなっていることであろう。しかし、そんな中で日本が大型プロジェクトを取ったか、取られたかを基準にしてインドネシアとの関係を評価するような声を聞くとやはり少し寂しい気がする。
    ブランタス・プロジェクトは当時の国家的な大事業だったが、日本との関係で今に至るまで継承されている価値はその経済的効果ばかりでなく、ブランタス・スピリッツに代表される日本人の職業的責任感と誇り、そしてそこから生まれた両国の関係者の一体感や信頼感にあるような気がしている。


    インドネシアとの間では今も多くの重要なプロジェクトが日本との協力で進められている。そこでは今も新しいブランタス・スピリッツが生まれているのではないだろうか。インドネシアでは色々な国との協力が多彩に展開されるようになっているが、やっぱり日本との協力が最も強い信頼感を持てると言う感想をインドネシア人の友人から聞いたりするとうれしいし、日本とインドネシアの関係は正しい方向を向いていると感じさせてくれる。

    もしかしたら小さなブランタス・スピリッツは日本人のいる職場や現場でそれぞれに形を変えながらあちこちに生まれているのではないだろうか。そんな気がする。(了)

第10回 「教育への熱意」

       学校の授業を週5日にして1日の授業時間を6時間から8時間に延長するという教育文化大臣の発表が思いのほか大きな反響を引き起こした。その多くは実施に慎重ないし反対の意見だ。子どもの負担が大きくなり過ぎる、踊りや音楽などの課外レッスンの時間がなくなる、などの保護者の声だけでなく、イスラム系学校を所管する宗教省からも反対された。決定は見直しになるようだがやむを得ないかも知れない。

 

    多くのイスラム系学校では、一般のカリキュラムに加えて宗教教育を行っているので、週6日と夕方以後の時間を前提にして学習計画を組んでしまっている。夕方だけ宗教教育を行なっている施設では下校時間が遅くなると対応できない。インドネシアでは生徒数が数千人というイスラム塾・学校も少なくない。
    スラバヤに住んでいた時には東ジャワの土地柄もあってイスラム塾をときどき訪ねたが、カリキュラムがびっしりで驚いたことがある。またカリマンタンから親元を離れて寮生活をしている小学生に会った時にはその健気さに感心したものだ。この国では市街地でもイスラム聖典を読む勉強会が盛んで近所の若者や子どもが集まるのは普通の光景だから、子どもの寮住まいにも抵抗が少ないのかも知れない。

     それにしても、教育文化省がそういう諸々の事情を承知の上で宗教省や関係機関に根回しもせずに大臣令を発出したとすれば驚きだ。担当総局長が学校外でのスポーツやレッスン、宗教教育も正規授業の単位として認めるなどと躍起になって説明していたが、新学期直前だったこともあってちょっとした騒動になった。

 

    インドネシア人は教育熱心だと思う。インドネシア人が思い浮かべる歴史上の人物には、長く植民地であった経験から当然ながら独立運動の英雄が多いが、デワントロやカルティニなど教育の発展に貢献した人物も少なくない。「人は石垣…」という意識に似た心意気はインドネシアでも高く評価されているようだ。

    庶民の教育に対する意識も高いように見える。できるだけ良い教育を子どもに受けさせたいという親の気持ち、子どもの向学心に感心することも少なくない。中部ジャワに土地が痩せていて村全体が貧しいために都会で働くお手伝いさんの多くはここの出身と言われる程に有名なところがある。私の家のお手伝いさんのひとりもそこの出身だった。年配だったが時々孫が訪ねてきていた。そのうちその孫がガールスカウトの服装で現れるようになった。私の2度目のジャカルタ勤務の時には女子高生になっていた。当時の標準から言うと、「自分の生活を切り詰めてよくも立派に子どもを育て上げた」という庶民の見本のように見えた。

 

    スハルト政権下の経済成長期にはそういう家庭が多かったように思う。世銀の統計では、1970年から1995年の間に、小学校の就学率が72%から91.5%に高まり、高校でも17%から32.6%に伸びたとされている。国土の広さや地域間の格差などを考えると国の施策だけではなく国民の教育への熱意がその背景にあるのを感じる。

    その頃はスハルト大統領自身が自伝に「村の子ども」とタイトルをつけ、インドネシアの貧しい人々に夢を与えていた、そういう民族としての誇りが生きていた時代であった。今は貧しくとも頑張れば指導者になれる、インドネシア人は誰でもそういう資質を受け継いでいるのだ、という誇りだ。

 

     インドネシアは今や高校まで義務教育を拡げようという議論が起きる時代になっている。予算の20%は教育に充てられるという規定は法律ではなく憲法に書いてある。教育を大事にする伝統と明日への自信がまだ生きているよう見える。しかし他方で、クレディ・スイスのデータでは、最も豊かな上位1%の国民が国の富の半分以上を支配しているなどと報じられている。
      法律や制度は充実し経済も飛躍的に発展したが、かつての湧き上がるような民族的な誇りや気分の高揚はむしろ衰退しているのではないかという人もいる。もっとも教育を通じた貧困の世代間連鎖の問題に直面している日本人としてはとてもこれにコメントできる資格はない。(了)

第9回「インドネシア人と理屈っぽさ」(生々流転vol.17

       インドネシアで最初の鉄道開通は日本より早い。これは知る人にはよく知られた歴史的な事実だ。新橋―横浜間の鉄道が正式開業したのは明治5年だが、その5年前の1967年に中部ジャワの中心都市スマランからタングンまでの26kmで初めて鉄道が開業し、明治5年には既に古都ソロまで延伸している。

    もっともその後の両国の鉄道は大きく異なる歴史を歩んだ。独立宣言の直後から始まる対英蘭独立戦争や長い経済的な混乱を経験したインドネシアと日本を比べることに余り意味はない。しかし近年、経済インフラ基盤として鉄道の役割が見直され、これまで見捨てられていた鉄道線の復活や新設が相次ぎ、鉄道関連施設が整備されることで物資輸送のみならず一般旅客にとっても利便性と快適さが格段に改良されていることはうれしいことである。

 

     ジャカルタからバンドンまで高速鉄道を建設する計画が建設段階に入っているという。そんな話を聞くと、のんびりしたスハルト時代の鉄道旅を思い出す。当時、ジャカルタとスラバヤを結ぶ幹線鉄道には二人用の個室車両のついた列車が走っていた。確かビマ号という名前だったように思う。この車両に男女で乗るには婚姻を証明する書類が必要だった。

    私の家内が遅れて赴任して来た時に、記念に二人で乗ろうとジョクジャカルタ駅に向かった。普段は夕方4時頃ジョクジャ発で翌日の明け方にジャカルタに着くスンジャ号を利用していたが、ビマ号は夜10時発であった。ところが改札で駅員から、その日のビマ号は都合によりソロ駅で個室車両が切り離されたので、普通の寝台車しかないと伝えられた。

    その後の駅員の説明が忘れられない。「あなたの切符は個室用の乗車券だから寝台車には乗れない規則だが、この切符でそのまま寝台車に乗れるように取り計らってあげる」。個室は当然ながら寝台車よりかなり高額だ。鉄道会社側は差額を払い戻した上で運行上の不都合を謝して寝台車に移ってもらう、これが予約の乗客に対する常識ではないか。当時はまだ若かったこともあり、駅長室まで怒鳴り込みに行った。しかし駅長曰く、「厳密に規則を適用すれば個室切符をキャンセルして寝台券を新たに買うことになるが、そうするとキャンセル料が差額を上回るので追加料金が必要になる。従って、寝台車とタダで交換するのは我々の好意だ」。

 

    もうひとつ似た経験がある。別の鉄道旅だったかもしれないが、夜行便で夕食付きの列車だった。食堂車での食事も悪くはないが、その日は早めの夕食を下宿で済ませていた。それでコーヒーだけもらおうと係員に頼んだところ、「コーヒーの単独注文は有料です」との答えが返ってきた。夕食には同じコーヒーが付いているのである。夕食を頼んでコーヒーだけ飲めばタダなのかと追求すると、「そういう規則です。」とラチがあかない。結局、意地を張って飲まず食わずで寝たように思う。

    この列車旅の経験は、「インドネシアではなんでもあり、規則も融通無碍で、ケセラセラ(なるようになるさ)だ」という経験則を根本から揺さぶるものだった。どちらが正しいのだろう。これまでの体験をつらつら思い返すと、インドネシアの人は日本人以上に筋を通すと言うか、理屈っぽいところがあると感じたことが意外とある。多くの場合は相手が建前(あるいは規則)に触れざるを得なくなったりすると急に柔軟性が萎んでしまうような気がするが、そのことについてはまた別の機会に考えてみたい。

 

     今国会の重要法案の一つにテロ対策法改正案がある。昨年1月にジャカルタの目抜き通りで発生した爆弾・発砲テロ事件を受けて、従来のテロ対策を強化するための法律である。すでに1年以上国会で審議が続いているが、いまだに成立の見込みが立たない。その間にも各地でテロ関連事件が起き、最近もジャカルタで再び犠牲者が出た。多数与党の政府が早期成立を目指しているのに不思議なことだ。

    当初、筆者はこの法案はあまり時間をかけずに成立すると思っていた。何故なら、やや不謹慎な言い方だが、この法案は国家の重大事を扱ってはいるが、政党や議員にとって直接の旨みが乏しいので、議員が審議にこだわるメリットが少ないのだ。確かに、テロ容疑者の拘留期限の大幅延長や国軍の関わり方など、人権侵害を招きかねない重要な改正事項を少なからず含んではいる。しかし、率直に言ってこれまで政府も国会も人権問題にそれほど敏感に反応してきたようには見えない。

     例えば地方の汚職事件を追求した記者が不審な死を遂げても関心を示さなかった。1年も審議してまだ「テロとは何か」が議論されていると聞くと、やはりインドネシア人は筋を通すことにこだわる、理屈っぽいのかも知れない、と思いたくなってくる。

    テロ問題で「なんとかなるさ」では困るが、南部フィリピンからイスラミック・ステートの戦闘員が狭い海峡を超えてインドネシアに潜入するかも知れないという心配が現実的になってくると、さすがにそろそろ結論を出さないとまずいような気がしている。(了)