第9回「インドネシア人と理屈っぽさ」(生々流転vol.17

       インドネシアで最初の鉄道開通は日本より早い。これは知る人にはよく知られた歴史的な事実だ。新橋―横浜間の鉄道が正式開業したのは明治5年だが、その5年前の1967年に中部ジャワの中心都市スマランからタングンまでの26kmで初めて鉄道が開業し、明治5年には既に古都ソロまで延伸している。

    もっともその後の両国の鉄道は大きく異なる歴史を歩んだ。独立宣言の直後から始まる対英蘭独立戦争や長い経済的な混乱を経験したインドネシアと日本を比べることに余り意味はない。しかし近年、経済インフラ基盤として鉄道の役割が見直され、これまで見捨てられていた鉄道線の復活や新設が相次ぎ、鉄道関連施設が整備されることで物資輸送のみならず一般旅客にとっても利便性と快適さが格段に改良されていることはうれしいことである。

 

     ジャカルタからバンドンまで高速鉄道を建設する計画が建設段階に入っているという。そんな話を聞くと、のんびりしたスハルト時代の鉄道旅を思い出す。当時、ジャカルタとスラバヤを結ぶ幹線鉄道には二人用の個室車両のついた列車が走っていた。確かビマ号という名前だったように思う。この車両に男女で乗るには婚姻を証明する書類が必要だった。

    私の家内が遅れて赴任して来た時に、記念に二人で乗ろうとジョクジャカルタ駅に向かった。普段は夕方4時頃ジョクジャ発で翌日の明け方にジャカルタに着くスンジャ号を利用していたが、ビマ号は夜10時発であった。ところが改札で駅員から、その日のビマ号は都合によりソロ駅で個室車両が切り離されたので、普通の寝台車しかないと伝えられた。

    その後の駅員の説明が忘れられない。「あなたの切符は個室用の乗車券だから寝台車には乗れない規則だが、この切符でそのまま寝台車に乗れるように取り計らってあげる」。個室は当然ながら寝台車よりかなり高額だ。鉄道会社側は差額を払い戻した上で運行上の不都合を謝して寝台車に移ってもらう、これが予約の乗客に対する常識ではないか。当時はまだ若かったこともあり、駅長室まで怒鳴り込みに行った。しかし駅長曰く、「厳密に規則を適用すれば個室切符をキャンセルして寝台券を新たに買うことになるが、そうするとキャンセル料が差額を上回るので追加料金が必要になる。従って、寝台車とタダで交換するのは我々の好意だ」。

 

    もうひとつ似た経験がある。別の鉄道旅だったかもしれないが、夜行便で夕食付きの列車だった。食堂車での食事も悪くはないが、その日は早めの夕食を下宿で済ませていた。それでコーヒーだけもらおうと係員に頼んだところ、「コーヒーの単独注文は有料です」との答えが返ってきた。夕食には同じコーヒーが付いているのである。夕食を頼んでコーヒーだけ飲めばタダなのかと追求すると、「そういう規則です。」とラチがあかない。結局、意地を張って飲まず食わずで寝たように思う。

    この列車旅の経験は、「インドネシアではなんでもあり、規則も融通無碍で、ケセラセラ(なるようになるさ)だ」という経験則を根本から揺さぶるものだった。どちらが正しいのだろう。これまでの体験をつらつら思い返すと、インドネシアの人は日本人以上に筋を通すと言うか、理屈っぽいところがあると感じたことが意外とある。多くの場合は相手が建前(あるいは規則)に触れざるを得なくなったりすると急に柔軟性が萎んでしまうような気がするが、そのことについてはまた別の機会に考えてみたい。

 

     今国会の重要法案の一つにテロ対策法改正案がある。昨年1月にジャカルタの目抜き通りで発生した爆弾・発砲テロ事件を受けて、従来のテロ対策を強化するための法律である。すでに1年以上国会で審議が続いているが、いまだに成立の見込みが立たない。その間にも各地でテロ関連事件が起き、最近もジャカルタで再び犠牲者が出た。多数与党の政府が早期成立を目指しているのに不思議なことだ。

    当初、筆者はこの法案はあまり時間をかけずに成立すると思っていた。何故なら、やや不謹慎な言い方だが、この法案は国家の重大事を扱ってはいるが、政党や議員にとって直接の旨みが乏しいので、議員が審議にこだわるメリットが少ないのだ。確かに、テロ容疑者の拘留期限の大幅延長や国軍の関わり方など、人権侵害を招きかねない重要な改正事項を少なからず含んではいる。しかし、率直に言ってこれまで政府も国会も人権問題にそれほど敏感に反応してきたようには見えない。

     例えば地方の汚職事件を追求した記者が不審な死を遂げても関心を示さなかった。1年も審議してまだ「テロとは何か」が議論されていると聞くと、やはりインドネシア人は筋を通すことにこだわる、理屈っぽいのかも知れない、と思いたくなってくる。

    テロ問題で「なんとかなるさ」では困るが、南部フィリピンからイスラミック・ステートの戦闘員が狭い海峡を超えてインドネシアに潜入するかも知れないという心配が現実的になってくると、さすがにそろそろ結論を出さないとまずいような気がしている。(了)