第1回「なぜアホックは嫌われるのか?」

       ジャカルタ州知事選挙は興味津々だった。特に面白かったのはアホック知事のキャラクターに対する市民の反応だ。人気があるようで、酷く嫌われている。非イスラム華人系なのは仕方がないにしても、「あのガサツな話し方が許せない」という批判には、若い頃ジャワで暮らした身としてはおおいに共感するところがあった。

 

        ジャワ人はメンツを大事にする。意見が違っても決してあからさまに違いを指摘しない。やんわりと、どこまでもやんわりと相手が自然と違いに気付くまで遠回しに伝える。間違っても、相手の言うことが間違いだなどと斬りつけるように言ってはいけない。相手がその婉曲話法で気がつかなければ、その人は「教養がない人」ということになって、次のパーティーでは遠ざけられるか、招待状が届かないということになるだけだ。

    そんな文化がインドネシアだと若い頃に教え込まれた常識からすると、アホック知事が記者を前に「◯△局長は無能だからクビだ」などと露骨に批判する発言を初めて聞いた時には、びっくり仰天であった。

   そもそも以前は、インドネシアに赴任する人への注意事項で、「人前で叱るな、注意は別の部屋で2人だけでやれ。」というのは最初の3番目くらいには入っていたはずだ。「メンツを失う」はインドネシア語でもその通りの言い方をする。インドネシア人はメンツを大事にするから人前で叱られるとその恨みが後日に思わぬ仕返しになって現れるかも知れない、と厳しく注意されたものだった。

 

    考えてみると、ジャワ語にはイエスとノーの区別がないと言われている。何を聞いても、相手は「ンゲー」などと同じ返事を返すばかりで要領を得ない。友人に尋ねると、文脈でイエスかノーか分からないような人間がなんで大学まで行って勉強するのだという顔をされる。

    スハルト大統領の通訳をさせて貰ったことがあるが、日本の来客が何故か3度同じ質問を繰り返し、大統領は最後まで「ノー」という言葉を使わなかった。最初の質問で大統領の意図は明白だったが、その来客は混乱していたようだ。

    しかし考えようによってはこれは日本人にとって得なことかも知れない。日本語でも、ハイ、ハイ、と言いながら実際はノーだということは良くある。イエスとノーをまず明確にしないとコミュニケーションが成立しない西洋人より日本人の方がずっとインドネシア人との付き合いでは有利だと思う。

 

    最初のアホック氏の話し振りに戻るが、ガサツな物言いが時代の流れの中で許されるように変わったのだろうか。そういう面は確かにあると思う。しかしやはり彼だから(華人インドネシア人の言葉遣いは昔から結構荒っぽかった)、あの荒っぽさがジャカルタの街を短期間で変えたという評価が背景にあるから、大目に見てもらっているのだろう。

    やっぱり我々外国人にはインドネシア人が大事だと思うことを尊重して付き合う方が良さそうに思える。もっともそれはひと昔前の日本によく似ているから、ことさらに肩肘張る必要もないのだが…。