第21回 縁日祭と仲間の輪

 

 

   ジャカルタの「縁日祭」には毎年、日本人はもとより10万人単位のインドネシア人が参加して楽しんでいる、という話を知人から聞いた時には驚くというより感動した。

   何よりもまずその規模が私の想像を絶している。その縁日祭を実際に企画し運営している人たちの苦労は並大抵ことではないだろうが、これにも両国のボランティアが数千人も参加しているというから巨大な記念碑的共同作業ということになる。

   今から数十年前にこの国との文化交流や日本紹介事業を始めて担当し、その後も折に触れて両国の関係に多少携わった経験を持つ身としては、この「縁日祭」のインパクトは強烈だ。私の経験などとても比較の対象にならないが、日本のこの国との関わり方の一面を示しているような気もするので、少し昔を振り返ってみたい。

 

   私は1976年に2年間の語学研修を終えてジャカルタの大使館広報文化班に配属された。日本の様子を紹介する月刊誌や時事的な出来事を知らせるニュースレターなどを発行しており、毎週土曜日にはインドネシア人向けの生花教室を大使館の広報室で行っていた。その時だけは、殺風景な事務所が明るくなる気がしたものだ。先生はジャカルタ在住の日本人のご夫人にお願いした。生徒は10数人だった。関係者からはそれなりに歓迎されたが、1.5億人に近い人口(当時)のインドネシアでは自己満足と言われても仕方のない寂しさだ。当時大使館が行なっていた文化活動と言えば、この生花講習会とその発表会、それに大使館講堂での不定期な映画上映会くらいのものだった。そんな経験が原点にあるから「縁日祭」は感動そのものである。

 

   映画上映会は映写機をジープに乗せてジャワの村々を転々と移動しながら行うこともあった。当時は映画館自体がまだ少なかった。日本の京都に当たるジョクジャカルタのような主要都市ですら観客席が籐いすの映画館があって、座る前に新聞紙を敷くのを忘れたために、南京虫の攻撃で太ももが酷いミミズ腫れになったことがある。

   そんな時代だったからジャワの農村地帯での映画上映会は大いに喜ばれた。村長さんの許可を得て、村のサッカー場に白幕を張ったところに、フィルムが古くて白い縦筋が画面に入っている映画を投影するのだが、行く先々でサッカー場はいつも観客でいっぱいだった。大使館に帰ると、各地で千人単位の観客で大盛況でしたと得意になって報告していた。「縁日祭」を引き合いに出すまでもなく今から見るといかにもささやかな活動ではある。しかしこれが当時の定例の文化交流事業だった。なお、数年後にたまたま知り合ったインドネシア人から、あの時の巡回映画は思い出です、と感謝されたことはある。

 

    大きな文化事業としては、日本から有名な歌手を派遣してもらって大々的に公演をすることもあった。インドネシアの閣僚を含む要人にも招待状を送るので会場は華やかだ。こうした文化事業は名目上、「日本の文化を外国に紹介し日本に対する理解と親近感を醸成する」ことを目的にしているのだが、実際は観客の多数は日本人である。

   もっともこれはやむを得ない。当時、大晦日には日本から持参した高感度ラジオを電波の受信しやすいプンチャックなどの高地に持って行ってNHK紅白歌合戦をみんなで聴いたものだった。紅白歌合戦を映像で見るには、1月の中頃から順に東南アジア各国を巡回するフィルムの到着を待たねばならなかった。そんな時代に外国で苦労している日本人にとって、日本からの歌手の公演は滅多にないチャンスであったのだ。

 

   そもそも「日本に対する理解と親近感」とはどのように測ることができるのだろうか。当時から数年を遡った1974年には田中総理訪問時の「反日暴動」事件が起きていた。ジャカルタ各地で日本車が破壊され、日系企業の社屋が襲われて放火された記憶はまだ生々しかった。

   インドネシアの独立以降の大きな流れの中で見ればこの国での日本に対する感情は決して悪くないと思う。それでも国と国との関係には山あり谷ありは避けられない。その谷である「反日暴動」の中で、「経済侵略」とか「エコノミックアニマル」とかの日本批判一色で騒然としている時に、それに反論してほしいとは言えないにせよ、「日本や日本人にはいいところもあるよ」と彼らの仲間うちで言ってくれた人はいたのだろうか。あるいはやはり、そこまで日本に義理はないという人が圧倒的だったのだろうか。広報文化活動の成果としての理解と親近感とは究極的にはそういう視点から測られるのではないかという気がしていた。

 

   そういう基準で見ると、文化事業を「舞台で行う」発想を転換することが大事なのではないか。日本の文化をインドネシアに持ち込んで「舞台」から「客席」のインドネシア人に見せる(伝える)という発想では、同じ客席にいる両国の観客同士ですらなかなか友だちにはなりにくいだろう。援助する人とされる人の一方通行の経済協力の発想を思い起こす文化交流だ。

   そんな経験もあったので、スラバヤで熱心な領事を中心に「よさこい祭り」が始まった時には、舞台と客席の垣根を外した交流のエネルギーを実感することができた。日本人会もチームを組んで参加してくれた。東ジャワの大学や踊りのサークルなどからは初めての試みにもかかわらず20チーム近くが参加した。しかもインドネシアのチームは自分たちの大学などに戻ってからも自発的によさこいを広げていた。そこでは演者と観客の区別が消滅して楽しい仲間だけが存在するようだった。

 

   「縁日祭」を運営している人の話を伺うと、そもそも文化の「交流」などと言う意識すら飛び越えているような印象を受ける。役所仕事で広報活動だ、文化事業だ、などと肩肘を張って事業を一方通行で「提供する」のではなくて、国境を超えて一緒に楽しみ合う活動がどんどん進む時代になっているのだとつくづく感じさせられる。

    私が広報文化を担当していた頃、ある日本の特派員が、大使館は何故、日本のいいことばかりを選別して伝えようとするのだ、良いことも悪いところもひっくるめて新聞の記事を全部相手に見せる姿勢が必要だ、と言われたことがある。その時は、予算を使ってネガティブな日本の姿を伝えるのは論外と思っていたが、ソトヅラばかりを飾っていたら友だちはできないという意見に共感できるようになった。

   「日本」という意識が強すぎるせいか、これまでのこの国との接し方は「立派な友人」として振る舞おうと気を使い過ぎてはいなかっただろうか。「アジアの長兄」などとこの国の人からおだてられるが、世の中も大きく変わっているので、「スキのない立派な友人」も結構だが「気が置けない隣人」という関係が日本とこの国の間ではますます大切になってきているように思える。もっとも今、「縁日祭」の盛り上がりを見ると、もうそんな議論すらとっくに置き去りにした仲間の輪がしっかり広がっている。(了)