第19回「ゴム時間」を考える

インドネシアで生活経験のある日本人が日本との違いで最も戸惑うことのひとつは、やはり時間への感覚の違い、ハッキリ言えばインドネシア人の時間に対するルーズさではないだろうか。この場で改めて取り上げるのも気が引けるほど、多くの人の体験がさまざまな媒体で綴られている。ラバータイム(時間が伸び縮みする「ゴムの時間」)はインドネシアの代名詞にすらなっている。

 

 私の最初のインドネシア経験は1970年代の中部ジャワだったが、1日の時間は朝、昼、晩の3区分より細かく区切らない方が身のためだ、と悟るまでにイライラと無駄なあがきをした記憶がある。

 

 それでも大学でのセミナーだか何だかの会合で、100人以上の大人が1時間以上も待たされた時など、出席者全体の浪費時間は今風に言えば従業員一人の「月平均所定労働時間」にも達するから、会議好きのインドネシア全体では毎日膨大な経済的損失になっているはずで、このままではいくら石油があっても豊かになりようがないだろうと、余計なお節介の憤慨をしていた。

 

 

 

 そんな「上から目線」での興味ではあるが、このゴム時間は、今後の経済発展とそれに伴う社会の変容の中で果たして変わっていくのだろうか、と気になっていた。

 

 最初に遭遇した「変化」は1990年頃だった。親しくしていた国会議員にいつものように会食の誘いをした時、「朝食会にしよう」という驚きの返事を受け取った。名誉職のような議員が急に忙しくなったのか?  当時、テレビの民間放送が始まり、洒落たコマーシャルが茶の間にあふれ出していた。商売は昔ながらに売れるものを売るのではなく、消費者が買いたくなるように売り出すのだ、という積極商法が広まり、伝統的な知識層の一部からは「外国の消費文化に汚染されてはいけない」という警戒の声も上がっていた。そんな中で、時間が経済活動の重要な要素だという意識もようやく浸透していたから、その影響を受けての提案かと思った。もっともその「朝食会」はとりとめもなく会話が続いたので、結果的には朝食会をした気分になるのが目的だったのかもしれない。

 

 次の驚きの「事件」は2000年代の初め頃だ。東ジャワ州スラバヤの市長さんにバリ舞踊の公演に招待された。夜7時開演の案内なので、無駄と思いつつ10分前に着いた。案の定、広い会場には丸テーブルといすだけがむなしく並ぶばかりだが、舞台正面のテーブル席に腰をかけている二人がいる。それが市長夫妻だった。「インドネシアでは一番偉い人は最後に来るのでしょう?」と尋ねると、「この時間感覚では日本に追いつかない。口で言うだけではダメなので、態度で示している。きっと変わる」という返事だった。

 

 その次に考えさせられた光景は、2010年頃のことだ。北スマトラ州の知事に面会を申し込んだところ、知事公邸で官庁始業時間のずっと前の8時を指定されたことがある。行って驚いたのは、広い駐車場がすでに満杯で、通された待合室にはアポ待ちの州の要人らが並んでいたことだ。他の待合室も地方からの来訪者やビジネスマンでいっぱいだ。スタッフに聞くと毎朝がこんな様子だそうだ。これでは「ゴムの時間」どころか、引き絞った弓の弦だ。分刻みの世界が周りから隔絶してポツンと存在しているはずはないので、時間の感覚はこの国でもどこかで大きく動いていたのだと思う。

 

 

 

 ところでこの知事が全国知事会議やその他の用向きでジャカルタに行った際には、大統領や内務相とのアポでは、当たり前のように待たされることがあるのだろうと思う。分刻みのスケジュールに慣れた人間はそのゴム時間の無駄をどのように受け止めるのだろうか。日本人のようにイライラして待つのだろうか。

 

 ある行事に出席した時、主賓の待合室に通されたことがある。ゴム時間の嫌な予感がしたが、主賓は定刻に来た。ところが会場には移動しない。待合室で延々と歓談している。会場で待っている招待客はゴム時間の無駄に耐えているであろう。主賓はその無駄を強要していることになる。もしかすると会場の招待客も自分の会社や役所に戻ったら、このゴム時間の経験を部下に押し付けているのであろうか。強い者から徐々に弱い者にイジメが連鎖していく構図が浮かぶようだ。果たしてそうなのだろうか。

 

 

 

 行事や会議にもよるが、ゴム時間は実際には参会者にとって必ずしも無駄に過ごされているばかりではないような気がする。ちょっとした情報交換や知り合いの幅を広げる機会にもなるし、場合によっては久闊(きゅうかつ)を叙する機会にもなろう。偉い人が主催する集まりであればそれなりの人たちが集まるから、ビジネスでも社会生活でも人間関係を大事にするインドネシアでは意外と重宝な場になっているかも知れない。わざわざカクテル・パーティーを開いて社交の場を作るまでもないということにもなる。

 

 先の例で言えば、待合室で歓談し続けた主賓は会場の招待客にゆっくりゴム時間を楽しんでくれと言う気持ちだったと好意的に解釈できないこともない。もっともまるっきし無駄なゴム時間が多いのも事実だし、日本人としてその場をうまく使えるかどうかも別問題だ。

 

 

 

 先日、バリ在住の日本人の知人から、「バリ島の儀式はひたすら待つ。もう3時間、バリ人はその時間を楽しみイライラしない」というメッセージを受け取った。ゴム時間の無駄な時間をどのように活用するか、などというチャチな問題意識をすっかり超越した境地と言わざるを得ない。

 

 その知人が言うように、「時は金なり」の「金」とは友人や安らぎや家族である、と感じられるかどうか、という価値観を持ち続けている世界がインドネシアにはあると言うことなのだろう。一時間単位でスケジュールを立てている人、十分単位の人、分刻みで動く人、単位が小さくなればなるほど時間を効率的に使っていると評価される。しかし、先の知人の世界から見ると、効率的に時間を使っても、それが人生に有効かどうかは分からない、と問いかけているようにも見える。

 

 分刻みの仕事をしている日本人のAが、「どうして時間をそう無駄にするのだ」と南の島に住むBに問う。Bは、「何故そんなに忙しく働くのか」と聞き返す。Aは、「いつか携帯の繋がらないような秘境でゆっくり時間を過ごすためだ」と答える。Bは、「それなら今の俺だ」と呟く。ゴム時間をテーマにすると、どうしてもあの有名な小話のリメークを最後に書きたくなってしまう。(了)