第15回 「選挙と社会の行方」

       民主主義は目的地ではなくプロセスそのものであるとよく言われる。国民が理想と考える国のあり方を実現するためのプロセスを民主主義と呼ぶのであれば、それぞれの国の事情や時代状況によって民主主義に様々なバリエーションが生まれるのも理解できる。

 

    インドネシアは独立から72年、スカルノ時代にも、あるべき民主主義について侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論があった。選挙が定期的に行われるようになってからだけでも様々な試行錯誤が行われ、今に至っている。選挙は、民主主義の最も基本的な装置であるから、その時々の世相や政治社会状況が反映されるが、インドネシアの人たちはその選挙に揶揄や不満やらの気持ちを織り込みながら、様々な名前をつけているのが面白い。

    スハルト時代の6回の総選挙は「パンチャシラ民主主義のお祭り」と位置づけられ、文字通りの「管理選挙」だった。日本風に言うなら大政翼賛選挙とでも呼ぶのだろうが、スハルト大統領にしてみれば、経済発展のための資源と経験が限られた当時のインドネシアが一刻も早く先進国に追いつこうとするなら、欧米型民主主義による「衆愚政治」で無駄な回り道をしたりコンセンサス作りに多くの時間やエネルギーを浪費しているヒマなどないという気持ちだったのだろう。一種の「哲人政治」を目指したのかも知れないが、これも一つの時代の産物だったと言える。

 

     選挙を巡って様々な工夫や試みが自由に行われるようになったのは、やはりスハルト体制崩壊後の「改革の時代」になってからだ。絶対的な権力者の重しがなくなり、改革の熱気が収まるとまず現れたのが「親分選挙」だった。大親分の威令の下で抜け目なく影響力を蓄えていた番頭的な実力者や特に地方には多くのボスが存在していたので、自由な時代になって彼らが自己主張をしたのは自然な流れであったろう。村長や隣組長などの末端行政機構も彼らに有利だった。これと並んで選挙を支配したのが「金権選挙」だ。金権選挙の変形がアリババ選挙。頭はアリさん(インドネシア人)だが、本体はババさん(華人ビジネスマン)で、選挙資金の出処はババさんだ。

    こうした旧態依然の選挙に変化を与えたのが「人気選挙」「ビューティーコンテスト選挙」だろう。俳優や映画監督などの有名人が多数政界に進出し、著名な弁護士や市民活動家、評論家などと一緒に新しい選択肢を国民に示した。有権者には新鮮な選挙と映ったに違いない。 ただし彼らが政治家として有能かどうかは別問題で、その後には州知事や市長など実際の行政で成果を上げた行政官が注目されるようになった。「実績選挙」の登場だ。

     しかしいずれにしても候補者の客観的な評価は難しい。全体として「イメージ選挙」の色彩が強くなるのは避けられず、近年は広告代理店を含む選挙のプロ集団や組織を活用したイメージ操作に各候補者がしのぎを削っていると言われる。

 

     つい選挙の話が長くなってしまったのは、インドネシアの選挙もついにここまで来てしまったかという事件が露顕(ろけん)したからだ。警察の発表によれば、宗教や人種などの違いを煽動して憎悪感情や差別意識をネット上で拡散させることを商売にしていたグループが摘発された。このグループはジャカルタ知事選挙でも依頼を受けて「商売」していたことが明らかになっている。

    報道では、簡単に数千万ルピアの報酬が得られるぼろい商売らしいから、他にも多くの同業者がいるとみられている。ジャカルタ知事選挙では、ネガティブ・キャンペーンに金銭がばら撒かれていたという噂が広がっていたが、今回の摘発でそのことが証明されたことになる。末端の運動員や過激な思想に触発された支持者が「勝手に」やったと弁解して済む状況ではなくなっている。

 

    選挙運動に専門のプロが動員されるのはインドネシアでも普通になっている。しかしそれは、例えてみればビューティーコンテストで参加者の化粧や衣装に工夫を凝らしたり審査員に洒落た回答を返す練習をするのと同じで、候補者の能力や人物を有権者に訴えるプラスのイメージ活動であった。

    今回の事件はコンテストの舞台そのものを打ち壊しかねない犯罪だ。ジョコウィ大統領が、報酬を払った利用者も含めて徹底的な事件の解明を命じたのは当然だろう。

    しかし政府と治安当局が本腰を入れて取り組めば問題は解決するだろうか。選挙監視委員会は選挙費用が安価で済むネガティブ・キャンペーンはこれから増えると警告している。また当選が至上命令選挙運動員にとっては、「背に腹は変えられない」と禁じ手を使う誘惑に常に晒されているかも知れない。難しいところだ。

    来年の統一地方首長選挙、そして再来年の議会選挙と大統領選挙という大きな政治日程を控えて、早くも世の中はどんどん選挙モードが強まっていく気配だ。社会の亀裂がまた深まる方向に向かうのか、あるいは国民の連帯感や社会の寛容性がそれを押し返す健全さを見せるのか。直接の当事者ではない外国人としては祈るような気持ちでその進展を見守るしかないが、インドネシアの社会的文化的な弾力性(レジリアンス)は見た目以上にしなやかで力強いと信じたい。