第22回 息のつけない政治の季節

 

 

    2018年が明け、「政治の季節」が始まった。最終的に国の最高指導者を決める選挙にまで続く長い政治の季節になる。もっとも実際には、各党は昨年から全国171自治体で行われる首長選挙の候補者選定に忙殺されていた。ゴルカル党の幹部などは、首長選挙対策で忙しくて、重要課題であるノファント前党首の辞任で空席になった国会議長の後任選びを後回しにしているともらすほどだった。

    その統一地方首長選挙は候補者登録が8日から10日まで行われた。大統領選挙の前哨戦としても多くの話題を集めている地方首長選挙戦の事実上の始まりであり、これが政治の季節の幕開けとなる。なぜ政治の季節と呼ばれるかを、選挙庁の選挙日程で改めて確認してみよう。

 

    地方首長選挙の正式な選挙キャンペーンは2月15日から6月24日までだが、実際には候補者登録と同時に選挙活動は始まる。投票日は6月28日だ。その開票結果が明らかになって様々な議論が噴出していると思われる頃の7月4日には、早くも国会と地方議会の候補者登録が始まる。そしてそのわずか1カ月後の8月4日にはいよいよ大統領選挙の候補者登録が待っている。次から次に重要な政治日程が続く。議会選挙と大統領選挙のキャンペーン期間は9月23日から2019年4月13日までの長丁場だが、実際には登録完了と同時に選挙モードに入る。つまりこの政治の季節は、今年1月初めから2019年4月17日の投票日まで途切れることなく続くことになる。(仮に決選投票になると8月7日まで伸びる。)この日程を見ただけでも政治の季節が実感できる。

    今年の統一地方首長選挙は、全有権者の半数近くを占めるジャワ3州(東ジャワ、中部ジャワ、西ジャワ)をはじめ、多くの主要州が対象となっているので、総選挙と大統領選挙を来年に控える各党は全党体制で臨んでいる。また議会選挙と大統領選挙が同時に実施されるのも今回が初めてだ。議会選挙では国会、地方代表議会、州議会、県/市議会の各議員を選ぶ選挙が一斉に行われる。前回の選挙では合わせて2万近くの議席を目指して約20万人が立候補したと言われるマンモス選挙だった。今年はこれに大統領選挙が重なるのだから治安当局が治安の維持に神経をとがらせるのも理解できる。

 

   ところで20万人の候補者は選挙キャンペーンに一体いくらぐらいのお金を使うのだろうか。いろいろな説があるけれども、全体では膨大なルピアが経済活動の現場に流れ込むことだけは間違いなさそうだ。政治の季節は企業活動を慎重にさせると警告する評論家がいる一方、候補者が使う選挙費用はTシャツや横断幕や選挙カー、さらにはランチボックスなどまで、小規模事業者に恩恵をもたらす支出が多いから経済刺激効果が大きいと予想する人も少なくない。もしそうなら消費の低迷で今ひとつ勢いの出ない今の景気を押し上げてくれるかもしれないと期待も広がる。

   もっともその選挙費用は、政治との癒着で事業拡大を狙う悪徳商人・事業者からの融通によるものが少なくないと言われているので、「民主主義の祭典」である選挙が「汚職の温床」になると心配する人が多いのもうなずける。新聞の評論でも選挙と汚職の問題が連日のように掲載されている。インドネシア有権者にとって、金権政治のまん延はもうウンザリだろう。改革の時代に入って4度目の総選挙になるのに、またもやこの悪習が繰り返されそうな予感が濃厚になっている。

   選挙を巡る腐敗の悪循環を断ち切らないといけないのだが、残念ながらこれまでの政府の対策は奏功しなかった。今回は統一地方選挙の開始を前にして、ティト国家警察長官が汚職撲滅委員会と「金権政治対策合同チーム」を発足させると発表している。汚職撲滅委員会が関与するので実効性を期待したくなるが、他方で因縁関係にある警察と汚職撲滅委員会がうまく協調して成果を上げられるか期待半分、懸念半分というところだろうか。過去に両者の間では警察幹部の汚職摘発などを巡って全面戦争になったり、なりかかった事件が少なくとも3度はある。しかしもしこれが本当に成果を収めるころができたら、新年のお年玉としてこれ以上の贈り物はないだろう。(了)

第21回 縁日祭と仲間の輪

 

 

   ジャカルタの「縁日祭」には毎年、日本人はもとより10万人単位のインドネシア人が参加して楽しんでいる、という話を知人から聞いた時には驚くというより感動した。

   何よりもまずその規模が私の想像を絶している。その縁日祭を実際に企画し運営している人たちの苦労は並大抵ことではないだろうが、これにも両国のボランティアが数千人も参加しているというから巨大な記念碑的共同作業ということになる。

   今から数十年前にこの国との文化交流や日本紹介事業を始めて担当し、その後も折に触れて両国の関係に多少携わった経験を持つ身としては、この「縁日祭」のインパクトは強烈だ。私の経験などとても比較の対象にならないが、日本のこの国との関わり方の一面を示しているような気もするので、少し昔を振り返ってみたい。

 

   私は1976年に2年間の語学研修を終えてジャカルタの大使館広報文化班に配属された。日本の様子を紹介する月刊誌や時事的な出来事を知らせるニュースレターなどを発行しており、毎週土曜日にはインドネシア人向けの生花教室を大使館の広報室で行っていた。その時だけは、殺風景な事務所が明るくなる気がしたものだ。先生はジャカルタ在住の日本人のご夫人にお願いした。生徒は10数人だった。関係者からはそれなりに歓迎されたが、1.5億人に近い人口(当時)のインドネシアでは自己満足と言われても仕方のない寂しさだ。当時大使館が行なっていた文化活動と言えば、この生花講習会とその発表会、それに大使館講堂での不定期な映画上映会くらいのものだった。そんな経験が原点にあるから「縁日祭」は感動そのものである。

 

   映画上映会は映写機をジープに乗せてジャワの村々を転々と移動しながら行うこともあった。当時は映画館自体がまだ少なかった。日本の京都に当たるジョクジャカルタのような主要都市ですら観客席が籐いすの映画館があって、座る前に新聞紙を敷くのを忘れたために、南京虫の攻撃で太ももが酷いミミズ腫れになったことがある。

   そんな時代だったからジャワの農村地帯での映画上映会は大いに喜ばれた。村長さんの許可を得て、村のサッカー場に白幕を張ったところに、フィルムが古くて白い縦筋が画面に入っている映画を投影するのだが、行く先々でサッカー場はいつも観客でいっぱいだった。大使館に帰ると、各地で千人単位の観客で大盛況でしたと得意になって報告していた。「縁日祭」を引き合いに出すまでもなく今から見るといかにもささやかな活動ではある。しかしこれが当時の定例の文化交流事業だった。なお、数年後にたまたま知り合ったインドネシア人から、あの時の巡回映画は思い出です、と感謝されたことはある。

 

    大きな文化事業としては、日本から有名な歌手を派遣してもらって大々的に公演をすることもあった。インドネシアの閣僚を含む要人にも招待状を送るので会場は華やかだ。こうした文化事業は名目上、「日本の文化を外国に紹介し日本に対する理解と親近感を醸成する」ことを目的にしているのだが、実際は観客の多数は日本人である。

   もっともこれはやむを得ない。当時、大晦日には日本から持参した高感度ラジオを電波の受信しやすいプンチャックなどの高地に持って行ってNHK紅白歌合戦をみんなで聴いたものだった。紅白歌合戦を映像で見るには、1月の中頃から順に東南アジア各国を巡回するフィルムの到着を待たねばならなかった。そんな時代に外国で苦労している日本人にとって、日本からの歌手の公演は滅多にないチャンスであったのだ。

 

   そもそも「日本に対する理解と親近感」とはどのように測ることができるのだろうか。当時から数年を遡った1974年には田中総理訪問時の「反日暴動」事件が起きていた。ジャカルタ各地で日本車が破壊され、日系企業の社屋が襲われて放火された記憶はまだ生々しかった。

   インドネシアの独立以降の大きな流れの中で見ればこの国での日本に対する感情は決して悪くないと思う。それでも国と国との関係には山あり谷ありは避けられない。その谷である「反日暴動」の中で、「経済侵略」とか「エコノミックアニマル」とかの日本批判一色で騒然としている時に、それに反論してほしいとは言えないにせよ、「日本や日本人にはいいところもあるよ」と彼らの仲間うちで言ってくれた人はいたのだろうか。あるいはやはり、そこまで日本に義理はないという人が圧倒的だったのだろうか。広報文化活動の成果としての理解と親近感とは究極的にはそういう視点から測られるのではないかという気がしていた。

 

   そういう基準で見ると、文化事業を「舞台で行う」発想を転換することが大事なのではないか。日本の文化をインドネシアに持ち込んで「舞台」から「客席」のインドネシア人に見せる(伝える)という発想では、同じ客席にいる両国の観客同士ですらなかなか友だちにはなりにくいだろう。援助する人とされる人の一方通行の経済協力の発想を思い起こす文化交流だ。

   そんな経験もあったので、スラバヤで熱心な領事を中心に「よさこい祭り」が始まった時には、舞台と客席の垣根を外した交流のエネルギーを実感することができた。日本人会もチームを組んで参加してくれた。東ジャワの大学や踊りのサークルなどからは初めての試みにもかかわらず20チーム近くが参加した。しかもインドネシアのチームは自分たちの大学などに戻ってからも自発的によさこいを広げていた。そこでは演者と観客の区別が消滅して楽しい仲間だけが存在するようだった。

 

   「縁日祭」を運営している人の話を伺うと、そもそも文化の「交流」などと言う意識すら飛び越えているような印象を受ける。役所仕事で広報活動だ、文化事業だ、などと肩肘を張って事業を一方通行で「提供する」のではなくて、国境を超えて一緒に楽しみ合う活動がどんどん進む時代になっているのだとつくづく感じさせられる。

    私が広報文化を担当していた頃、ある日本の特派員が、大使館は何故、日本のいいことばかりを選別して伝えようとするのだ、良いことも悪いところもひっくるめて新聞の記事を全部相手に見せる姿勢が必要だ、と言われたことがある。その時は、予算を使ってネガティブな日本の姿を伝えるのは論外と思っていたが、ソトヅラばかりを飾っていたら友だちはできないという意見に共感できるようになった。

   「日本」という意識が強すぎるせいか、これまでのこの国との接し方は「立派な友人」として振る舞おうと気を使い過ぎてはいなかっただろうか。「アジアの長兄」などとこの国の人からおだてられるが、世の中も大きく変わっているので、「スキのない立派な友人」も結構だが「気が置けない隣人」という関係が日本とこの国の間ではますます大切になってきているように思える。もっとも今、「縁日祭」の盛り上がりを見ると、もうそんな議論すらとっくに置き去りにした仲間の輪がしっかり広がっている。(了)

第20回 ジョコウィの『周辺からの開発』を考える

       ジョコウィ大統領は今年、パプア地方を3回訪問している。大統領に就任したばかりの2014年末には早々と州都ジャヤプラを訪れ、キリスト教徒の多い同地の住民と一緒にクリスマスを祝っている。大統領としては初めてのことであると当時のマスコミは報じて歓迎した。

       私は当初、大統領の人気取りの気持ちが混じった政治的なジェスチャーではないか、と少し距離を置いて見ていたが、その後も大統領は頻繁に訪問している。大統領の動静を伝える報道を見ていると、パプア地方だけでなく、東西5千キロの広大なインドネシアの僻地、遠隔地に大統領は意図的に信念を持って訪れていることが分かる。自分自身は典型的なジャワ人だが、新政権が向かう大きな海図の中で、まずはジャワ中心主義からの脱却を示したかったのだろう。
        ジョコウィ氏は、大統領当選が決まった直後の演説で「周辺からの経済開発」を訴えた。インドネシア経済を飛躍的に発展させたスハルト政権が、マクロの経済発展を重視し、開発の成果である富と豊かさは徐々に地方や庶民に滴り広がっていく、という、いわゆる「滴り理論」を経済政策の基本にしたこととの違いを明確に意識した発言だと思う。ジョコウィ大統領は、周辺が豊かになることで中央が盛り上がっていく、と主張している。「周辺」とは、地理的に遠隔の地であり、都市との対比での村落であり、あるいは未だに開発の豊かさを実感できない庶民である。大統領のパプア訪問はその象徴的な意味合いがあるのだろう。


      「周辺からの開発」を視覚的にもしっかりと国民に印象づけるのはやはりインドネシア各地で進むインフラ整備の写真だ。農地を広げ潤すダムや貯水池が次々に建設、改修され、海路はるばる数日を要した町に飛行機が飛ぶようになる。港も改修される。ジャワ島でも断食明け正月で赤ん坊を抱えながら故郷の村々に帰省する人々がジャワ横断高速道路建設の進展で激しい交通渋滞から徐々に解放されている。
        毎日のように報じられるそうしたインフラ整備の写真や映像の中で、個人的に印象が強いのはやはりパプア縦貫高速道路建設だ。大統領がバイクで新しい舗装道を走る映像が流れたこともある。ジャングルを切り裂いて地平線まで延びる道路はひと昔前なら夢の世界の話だろう。
       パプア地方には私も3度ほど行ったことがある。最初は1974年の11月だった。戦時中にパプアで亡くなり、そのままになっていた日本兵の遺骨を収集して持ち帰るために日本の厚生省が派遣した一行に同行した。一行はグリーンスネークなどの毒ヘビの血清も携行していた。若い将校の警護で幻の湖と呼ばれていたセンタニ湖を渡り、対岸から更に奥地へわずか30キロほど進むのに、4輪駆動車で数時間かかったのを覚えている。雨が多かったこともあるが酷い道路だった。パプアの高速道路は文字通り夢のようである。
       おそらくインドネシアの多くの人たちは、今進行中の数々のインフラ建設の一つ一つに、自分の子どもの頃の体験などを重ねながら「夢のような」印象を刻んでいるのではないだろうか。単に街並みが変わったのとは次元の違う変貌に「発展」を実感していることだろう。ちょっと脇道に逸れるが、再来年の大統領選挙でジョコウィ氏と争うことを考えている政治家や政党にとっては、インドネシアの大地に次々に新しい顔を見せるインフラ建設とその先頭に立つジョコウィ大統領というイメージは難攻不落の砦のように映っているに違いない。


       ところでこんなにたくさんのインフラをいっぺんに建設して大丈夫なんだろうか、という疑問はどうしても拭えない。調査・設計、資金調達、建設管理等々、本当にきちっと出来ているのだろうか。ジョコウィ政権の初期はマジックのようなその華やかさに目を奪われていたが、3年を経過してそういう冷めた視線も増えてきた。
       日本でも、クマが通る高速道路、などと揶揄(やゆ)された例があるが、あの夢のパプア縦断道路は大丈夫なんだろうか。素人目で見ても維持費だけで将来かなりの負担となりそうな気がする。経済性などはどのように考えられているのだろう。すでに先行して始まっている定期高速海運網構想がひとつの参考になるかも知れない。開発の立ち遅れた東部インドネシアをジャワ島と結んで、地域間の格差を縮め、同時に東部の開発を促す計画だ。現在13航路が開設されているが、来年には28航路に拡充される。運行から3年目、東から西に向かう帰りの船便は未だに積載可能量の20%しか積荷がないという。ちなみに、今年は3350億ルピア、来年も4470億ルピアの補助金が予算に計上されている。大統領は、鶏が先か卵が先かで、セメントがジャワの10倍以上の値段のままではいつまで経っても地域経済は育たない、と反論している。
       この関連でイヤなニュースを紹介すると、4月にフィリピンのドゥテルテ大統領と一緒に華々しく開設したダバオとマナド間の貨物船の就航がある。実はフィリピンからマナドへ1度就航(往復)しただけで終わっていると今月報じられた。従来の所要時間3ー5日を36時間に短縮し、運賃も2200ドルから700ドルに削減とうたわれたASEAN東部地域の新しい海運のパイオニアになるはずだった。


       ジョコウィ大統領のインフラ整備が国際的にも評価が高いのは、大統領就任直後に、インドネシア経済の基盤を強化するインフラ整備のために石油燃料などの巨額の補助金を削減した、その果断な政治決断が出発点になっているからだ。つまり、国民が今喜ぶ消費への補助を削り、将来の生産基盤のためにお金を使う姿勢が賞賛された。
       政府がインフラ整備に前のめりになっていると危惧する人々の間からは、経済性の低いインフラ整備は、政府資金を投入することで商品やサービスを市場価格より安く国民に提供しているだけで、つまり消費の補助と同じになってしまうと批判している。税収が思わしくない中で、そんな余裕がありますか、とも警告している。
       この議論は非常に多くの要素が複雑に絡んでいるので簡単には結論が出ないだろうが、そんな中で大統領の発言が極めて単純ながら、面目躍如であった。彼は、これは経済性の議論の前に、社会正義と公平性を第一義に考えるべき政治の姿勢の問題だ、という趣旨の発言をしている。ジャワ島の10数倍のガソリン料金、数倍の米価などの生活を強いられた同胞の存在を見過ごすことはできない、とも述べている。国際会議では投資誘致や貿易拡大など経済関係の発言ばかりが目立つジョコウィ大統領だが、やはり骨格はスカルノ信奉者だったと改めて見直す思いである。経済開発の議論を精神論にすり替えていると言う人もいるかもしれないが、ここはひとつ「民族」の持つ意味合いがやはり国によってだいぶ違うのだな、と彼の発言を受け止めておくことにしたい。(了)

第19回「ゴム時間」を考える

インドネシアで生活経験のある日本人が日本との違いで最も戸惑うことのひとつは、やはり時間への感覚の違い、ハッキリ言えばインドネシア人の時間に対するルーズさではないだろうか。この場で改めて取り上げるのも気が引けるほど、多くの人の体験がさまざまな媒体で綴られている。ラバータイム(時間が伸び縮みする「ゴムの時間」)はインドネシアの代名詞にすらなっている。

 

 私の最初のインドネシア経験は1970年代の中部ジャワだったが、1日の時間は朝、昼、晩の3区分より細かく区切らない方が身のためだ、と悟るまでにイライラと無駄なあがきをした記憶がある。

 

 それでも大学でのセミナーだか何だかの会合で、100人以上の大人が1時間以上も待たされた時など、出席者全体の浪費時間は今風に言えば従業員一人の「月平均所定労働時間」にも達するから、会議好きのインドネシア全体では毎日膨大な経済的損失になっているはずで、このままではいくら石油があっても豊かになりようがないだろうと、余計なお節介の憤慨をしていた。

 

 

 

 そんな「上から目線」での興味ではあるが、このゴム時間は、今後の経済発展とそれに伴う社会の変容の中で果たして変わっていくのだろうか、と気になっていた。

 

 最初に遭遇した「変化」は1990年頃だった。親しくしていた国会議員にいつものように会食の誘いをした時、「朝食会にしよう」という驚きの返事を受け取った。名誉職のような議員が急に忙しくなったのか?  当時、テレビの民間放送が始まり、洒落たコマーシャルが茶の間にあふれ出していた。商売は昔ながらに売れるものを売るのではなく、消費者が買いたくなるように売り出すのだ、という積極商法が広まり、伝統的な知識層の一部からは「外国の消費文化に汚染されてはいけない」という警戒の声も上がっていた。そんな中で、時間が経済活動の重要な要素だという意識もようやく浸透していたから、その影響を受けての提案かと思った。もっともその「朝食会」はとりとめもなく会話が続いたので、結果的には朝食会をした気分になるのが目的だったのかもしれない。

 

 次の驚きの「事件」は2000年代の初め頃だ。東ジャワ州スラバヤの市長さんにバリ舞踊の公演に招待された。夜7時開演の案内なので、無駄と思いつつ10分前に着いた。案の定、広い会場には丸テーブルといすだけがむなしく並ぶばかりだが、舞台正面のテーブル席に腰をかけている二人がいる。それが市長夫妻だった。「インドネシアでは一番偉い人は最後に来るのでしょう?」と尋ねると、「この時間感覚では日本に追いつかない。口で言うだけではダメなので、態度で示している。きっと変わる」という返事だった。

 

 その次に考えさせられた光景は、2010年頃のことだ。北スマトラ州の知事に面会を申し込んだところ、知事公邸で官庁始業時間のずっと前の8時を指定されたことがある。行って驚いたのは、広い駐車場がすでに満杯で、通された待合室にはアポ待ちの州の要人らが並んでいたことだ。他の待合室も地方からの来訪者やビジネスマンでいっぱいだ。スタッフに聞くと毎朝がこんな様子だそうだ。これでは「ゴムの時間」どころか、引き絞った弓の弦だ。分刻みの世界が周りから隔絶してポツンと存在しているはずはないので、時間の感覚はこの国でもどこかで大きく動いていたのだと思う。

 

 

 

 ところでこの知事が全国知事会議やその他の用向きでジャカルタに行った際には、大統領や内務相とのアポでは、当たり前のように待たされることがあるのだろうと思う。分刻みのスケジュールに慣れた人間はそのゴム時間の無駄をどのように受け止めるのだろうか。日本人のようにイライラして待つのだろうか。

 

 ある行事に出席した時、主賓の待合室に通されたことがある。ゴム時間の嫌な予感がしたが、主賓は定刻に来た。ところが会場には移動しない。待合室で延々と歓談している。会場で待っている招待客はゴム時間の無駄に耐えているであろう。主賓はその無駄を強要していることになる。もしかすると会場の招待客も自分の会社や役所に戻ったら、このゴム時間の経験を部下に押し付けているのであろうか。強い者から徐々に弱い者にイジメが連鎖していく構図が浮かぶようだ。果たしてそうなのだろうか。

 

 

 

 行事や会議にもよるが、ゴム時間は実際には参会者にとって必ずしも無駄に過ごされているばかりではないような気がする。ちょっとした情報交換や知り合いの幅を広げる機会にもなるし、場合によっては久闊(きゅうかつ)を叙する機会にもなろう。偉い人が主催する集まりであればそれなりの人たちが集まるから、ビジネスでも社会生活でも人間関係を大事にするインドネシアでは意外と重宝な場になっているかも知れない。わざわざカクテル・パーティーを開いて社交の場を作るまでもないということにもなる。

 

 先の例で言えば、待合室で歓談し続けた主賓は会場の招待客にゆっくりゴム時間を楽しんでくれと言う気持ちだったと好意的に解釈できないこともない。もっともまるっきし無駄なゴム時間が多いのも事実だし、日本人としてその場をうまく使えるかどうかも別問題だ。

 

 

 

 先日、バリ在住の日本人の知人から、「バリ島の儀式はひたすら待つ。もう3時間、バリ人はその時間を楽しみイライラしない」というメッセージを受け取った。ゴム時間の無駄な時間をどのように活用するか、などというチャチな問題意識をすっかり超越した境地と言わざるを得ない。

 

 その知人が言うように、「時は金なり」の「金」とは友人や安らぎや家族である、と感じられるかどうか、という価値観を持ち続けている世界がインドネシアにはあると言うことなのだろう。一時間単位でスケジュールを立てている人、十分単位の人、分刻みで動く人、単位が小さくなればなるほど時間を効率的に使っていると評価される。しかし、先の知人の世界から見ると、効率的に時間を使っても、それが人生に有効かどうかは分からない、と問いかけているようにも見える。

 

 分刻みの仕事をしている日本人のAが、「どうして時間をそう無駄にするのだ」と南の島に住むBに問う。Bは、「何故そんなに忙しく働くのか」と聞き返す。Aは、「いつか携帯の繋がらないような秘境でゆっくり時間を過ごすためだ」と答える。Bは、「それなら今の俺だ」と呟く。ゴム時間をテーマにすると、どうしてもあの有名な小話のリメークを最後に書きたくなってしまう。(了)

 

第18回「 国軍から見るインドネシア」

       先月は話題が豊富だった。10月の「時の人」を選ぶとしたら誰だろうか。ジャカルタ州知事に就任したアニス・バスウェダン氏がやはり一番人気だろうか。大統領就任3年を迎え依然として国民満足度が7割を超えるジョコウィ氏も堂々たる有力候補だ。

       意表を突いてガトット国軍司令官はどうだろうか。個人的にはこの人を推してみたい気がする。去年から耳目を集める言動がテレビや新聞で頻繁に話題になっている。そもそも国軍司令官という立場の人間がこんなに目立って大丈夫なんだろうかと心配になるくらいだ。ちょっと振り返ってみよう。

 

       昨年の12月に、当時のアホック知事が宗教を侮辱したとイスラム団体が糾弾して行った大規模な抗議集会では、ジョコウィ大統領が急遽デモ隊の前に現れた時の写真が新聞に大きく載った。大統領の横には軍服姿でムスリムが着用する白い帽子を被ったガトット司令官が立っている。ファッションとしてはかなり不恰好だが、デモ隊の歓心を買っているようにしか見えない。彼はイスラム導師を国軍本部に招いて一緒に祈祷することも多いらしい。

       この司令官が次に注目されたのは、退役軍人との親睦会で突然、ある政府機関が大量の武器を違法に輸入していると暴露した時だった。これには国家情報庁や国家麻薬対策委員会のトップも事実確認に追われ、内閣で国軍との調整に当たる政治・国防調整相や国防大臣まで事態の沈静化に奔走した。

    この騒動に重なるようにしてこの司令官は、共産党によるクーデター未遂とされる9.30事件の映画を地域住民と一緒に見るように全国の部隊に指示した。これには国民から賛否両論が沸騰し、暴力沙汰に発展しそうな険悪な雰囲気すら一部では漂った。

       驚いたのは政治国防調整相とか国防相とかの内閣の重鎮が事態の沈静化に走り回っているのに、彼は「我関せず」というか、むしろ挑戦的とも受け取れる言動を続けているようにすら見えたことだ。政治調整相と言えば、彼より国軍士官学校で13期も先輩、しかもスハルト大統領退陣時の国軍司令官兼国防大臣だ。国防大臣も同じく6期先輩でしかも国軍最長老のトリ元副大統領の娘婿という人物である。大学の運動部でももっと先輩に敬意を払うだろうに、やはりこのガトット氏は「時の人」か、少なくとも「話題の人」に選ばれそうなキャラだと思う。

 

       ガトット国軍司令官の物議を醸す一連の言動については、次の大統領選挙に向けた人気取りが目的だと見る人が多い。彼自身も大統領選への関心を表明している。そのことの当否は別にして、この機会に国軍あるいは彼に代表される軍人の意識について少し振り返ってみるのは、今のインドネシアを理解する上であながち無駄ではないと思う。

       スハルト時代のインドネシアを経験した人にとって、「ABRI」(当時の国軍の略称)という言葉には特別な響きがある。国軍は、「軍の二重機能」の標語の下で、国防だけでなく政治、経済を含むあらゆる国民生活で指導的な役割を果たしていたから、文字通り「泣く子も黙る」存在だった。スハルト時代には経済は華人系の企業集団が牛耳っていたと一般に見られているが、国軍の巨大な企業集団は並の企業集団を大きく凌ぎ、何よりその特権的な立場は絶対だった。知り合いの軍人などは、国軍は国の予算など当てにしていないとうそぶいていたし、実際に不測の事情で困窮した軍人やその家族には国軍が独自の潤沢な資金で支援していたそうである。

 

       その国軍がスハルト政権の崩壊で「二重機能」を放棄させられ、その後の法改正では国軍ビジネスも全面的に禁止になった。改革の時代への大きな体制変革後も、スハルト時代の他の大企業集団、華人系財閥や国営企業などがその活動を広げている中で、ひとり国軍ビジネスだけが消滅させられた。それに加えて、国防と治安(警察)が組織的に分離したことも大きな打撃だ。治安に絡む非公式な資金ルートも閉ざされたからだ。

      「兵舎に戻る」ことになった国軍の立場は大きく低下したが、軍人一人ひとりへの影響もこれに劣らず大きかったことだろう。スハルト時代には、現役中は言うに及ばず、退役後も、閣僚や高級官僚、知事や市長、国会や地方議会の議員、国営・民間企業の役員など、生活と社会的地位は最優先で保障されていた。少なくともスハルト退陣の1998年以前に国軍士官学校に入学した軍人はほぼ例外なくこうした人生設計を描いていただろうと思う。それ以前が恵まれ過ぎていたのは間違いない。国軍トップのガトット司令官は1982年の卒業だから、夢と現実のギャップを感じている現役軍人はまだ多いのではないだろうか。

 

       インドネシアより経済的に進んだ国でも、軍部が直接政治に介入したり、あるいは軍事クーデターのようなニュースをまだ聞くことがある。各国事情は様々だから比較に意味はないが、インドネシアの国軍を取り巻く環境の激変を見るにつけて、インドネシアは大丈夫か、とひょっと気になることがある。

       しかし、そんな心配を口に出しても今のこの国では誰も相手にしてくれない。そんな気配は微塵も感じられないし、おそらく国軍も不満はあるにしても武器を市民や政府機関に向ける気など毛頭ないだろう。改めてこんなことを文字にするのも気が引けるほどだ。政治エリートの汚職蔓延やら国の富の9割を国民の1%の金持ちが独占しているとかの非難やら不満は絶えないが、民主的に問題を解決するメカニズムへの信頼が軍人を含めた国民一般に完全に定着しているのだろう。スハルト退陣で軍が一挙に政治を支配するかも知れないと一触即発の危機感が漂ったのは、遠い昔の出来事のような気がするが、まだ20年足らず前の事件だ。(了)

 

第17回「 ゴルカルと政治の季節」

       代表的な日刊紙であるコンパス紙で「ゴルカル党の支持率、7.1%に低下」という記事を読んで、スハルト政権時代に同党の議員らと多少の交流を持った経験を思い返しながら、改めて時代の変化を感じた。しかし同党は今も政権の支柱であり政局の重要プレーヤーであるので、その動向は感傷を排してしっかり見守らないといけないのだろう。

 

    支持率急落の報道以降、ゴルカル党は大きく動揺している。百戦錬磨の幹部党員を多く抱えた老舗の政党だが、政治の季節に入ったこの時期に、支持率が前回総選挙の得票率14.7%すらを大きく下回ってわずか7.1%にまで落ち込んだとなると、さすがに衝撃は大きかったようである。執行部がただちに調査委員会を設置して対応を検討させたところにも衝撃の大きさが察せられる。
    しかも調査委員会はその報告書で、支持率低下の主要原因としてノファント党首の汚職疑惑を挙げ、対策のひとつとして党首辞任を提言した。党内では党首の指導性に対する評価と臨時党大会開催の議論が再燃し、焦点は支持率低下への対応から、党内の主導権争い(党首交代の政治抗争)に移ったように見える。7月にノファント党首が電子版住民証汚職の容疑者に認定された時にも党内は大きく揺れ動いたが、その際には同氏が即座に党の長老や地方支部を丁寧に説明して回り、批判勢力を抑え込むことに成功した。その時に鬱積した不満や批判までが再び顕在化した感がある。
     ゴルカル党は海千山千の政治家が多いだけに党内抗争も一筋縄ではいかないところがある。党の内外の動きを巻き込んで複雑に展開しているようだが、今回は副大統領である党長老のカラ氏までがノファント党首は職務を一時停止すべきだと発言したと報じられた。その後、ノファント党首が汚職事件での容疑者認定を不当として訴えた予審で勝利し、少なくとも当面は自由の身となったことで、同氏の支持派が勢力を盛り返しているが、党内抗争はまだ混沌としているようだ。

 

    先に党内の関心が支持率から主導権争いに移行したと指摘したが、支持率への関心がなくなったわけではないと思う。スハルト政権時代には絶対多数を確保して政局を動かしてきたゴルカル党は、スハルト大統領の退陣直後(1999年)に国会議席が26%となって以来、一貫して長期の低落から脱却できずにいる。同党の強みは、地方支部を含む充実した党組織や行政機構へのアクセスの強さなどだが、他党の大統領が4人も続いたことで相対的な優越性が薄れている。従って、ゴルカル党には支持率の低下に敏感にならざるを得ない事情がある(もっともゴルカル党は党内の主導権争いに敗れた有力者が新党を立ち上げてきた経緯があるので、それらをまとめて「ゴルカル的な体質の政党」として括ることができれば数字上は今も断トツの最大政党で単独で大統領候補を擁立できる規模だ)。
    世論調査でもゴルカル党のイメージを「良い」と答えた人は、昨年5月(現党首就任時)の44.6%から今年9月の25.3%に急落している。それにもかかわらずゴルカル党にはイメージ改善に向けた真剣さが乏しい。国民が政党に向ける目は日毎に厳しく、最も腐敗した機関として世論調査がトップに挙げるのは今や警察ではなく政党だ。
    当面の国民の関心は国会による汚職撲滅委員会弱体化の工作だが、その尖兵になっている国会調査委員会にゴルカル党は委員長を送り込んで国民感情を逆撫でしている。次の選挙をにらんで野党や野党的な姿勢を示し始めた政党が国会調査委員会と距離をとっているのとは対照的だ。国民に良い顔をしたいが、賄賂の魅力には勝てないと自白しているようなもので、ダイエット中に目の前にごちそうが出たら我慢できない心理と変わらない。

 

    ゴルカル党内の抗争をジョコウィ大統領の立場から眺めたらどのように映るだろうか。どちらに転んでもゴルカル党は政府与党の路線を変えないだろうから、政府の議会対策の観点からは本心は高みの見物だという見方が多いのではないだろうか。他方、ノファント氏個人については、国会に安定与党をもたらした功労者で、ジョコウィ氏の大統領再選支持を逸早く宣言して政界に流れをつくった功績も大きい。従って、ノファント党首に借りのあるジョコウィ氏にとってはこの党内抗争に無関心ではいられないだろうという気がしていた。庶民派で思いやりのあるジャワ人のジョコウィさん、というイメージからの発想でもある。ところがある知人はその見方を即座に一蹴した。
    ジョコウィ大統領は、ノファント国会議長(当時)がフリーポート社の契約延長に絡んで株式取得の裏取引を行った際には本当に激怒したが、そのわずか数カ月後のゴルカル党首選挙では、「その後の国会対策と大統領再選戦略上は同氏が有利」と判断するや個人的な嫌悪感を捨ててノファント党首を実現させる工作を行った、という前例を引きながら、ジョコウィ大統領のジャワ・スマイルには政治的な判断の冷徹さと合理主義が同居していることをその知人は強調した。その当否は別として、再来年4月の総選挙、大統領選挙までの長い政治の季節に生起するだろう数々の政治物語の始まりを感じさせる説明ではある。(17.10.16)

第16回「ムルデカ」に込められた意味

       私の日本での学生生活は70年安保と重なったこともあり、大学のバリケード封鎖や自主講座などの大波に揉まれているうちに、いつの間にか卒業していたような印象がある。それもあって、中部ジャワの大学キャンパス近くの下宿に落ち着いてからは、ちょっと別世界で暮らすような気分だった。

    夜、国営のテレビ局からはその日の放送終了となるラユアン・プラウ・クラパだったかインドネシア・プサカだったかの曲が流れ、画面には麗しいインドネシアの映像が映し出される。殺伐とした日本のキャンパスの記憶が新鮮な身としては、理屈抜きにインドネシアの人がうらやましく感じられた。同じ民族の国家に属するということはこういう風にして実感するものなのだろうか、と妙に感心していた。  

      下宿のおじさんやおばさんが町内会の集まりに出掛けたり、隣近所の共同行事に参加してゴトン・ロヨン(相互扶助)を自慢げに語るのを聞いたりすると、日本が置き忘れてしまったものに出会ったような不思議な気分になったものだ。

      独立記念日などの式典では国是5原則のパンチャシラ(憲法の前文)が大きな声で読み上げられ、式典の主催者が「ムルデカ!」(独立、自由)と叫び、聴衆が声を揃えてそれに続く。搾取と抑圧の長い植民地時代を乗り越えて、ようやく自分の国を独立に導いた誇りと歓びが「ムルデカ」の一言に込められている、とその時の私には感じられた。


       今も政党の決起集会や国の行事などではしばしば「ムルデカ!」と参加者全員が声を合わせている。いつ頃からかはっきりしないが、私は、その「ムルデカ」と唱和する声の中に、ある種の空疎さを感じ始めた。それは私だけの感覚だろうか。

    そもそも独立したインドネシア共和国を構成するインドネシア民族とはどのようにして生まれたのだろうか。少なくともインドネシア人が誇りにするマジャパイト王国時代には、インドネシア民族という概念がまだなかっただろう。そうした疑問については様々な思索や研究の成果があるが、この国の民族意識は多くの先人が長い時間をかけて少しづつ培い育ててきた結果であるのは否定できないところだろう。その中で「ムルデカ」に象徴されるインドネシア語が果たした役割は想像以上に大きかったに違いない。その歴史的事実はよく理解できる。


  「ムルデカ」という言葉には二つの叫びが含まれているように感じられる。一つは、抑圧と非抑圧、搾取と被搾取という不条理を覆す決意、もう一つは抑圧されたインドネシア民族が内に向かって連帯感と一体感(ひとつの民族への帰属意識)を強固にしようという訴えだ。そしてこの二つは相互に補強し合う関係にある。

     「ムルデカ」に空疎さを感じるのは恐らく、一人当たりの国民所得が急上昇し、商店には商品があふれ、子供はバイクで学校に通うということが当たり前になってしまった社会で、インドネシアを不条理に抑圧する敵を仮に仮想であっても想定しにくくなっていることが大きな理由であろうと思う。

       経済開発はまだ不十分だ、外国との競争に負けるな、などと叫んでも、独立運動を支えた燃えるような対外的な民族意識に比べれば、はるかに希薄にならざるを得ない。「ムルデカ」を支える一つの柱が希薄になれば、その相互関係にあるもう一方の「同じ民族・国家への帰属意識」にも影響が出る可能性がある。国の外からの明白な脅威や敵が消滅した後に、どのようにして民族や国家への帰属意識を育てるのだろうか。

      人々の生活スタイルや社会への関わり方が多様化し将来への夢もさまざまに変化しているにもかかわらず、「ムルデカ」と叫ぶばかりで、新しい時代状況に相応しい形で民族と国家への帰属意識を育てるアプローチが欠けてはいないだろうか。そのことが「ムルデカ」の空疎さに繋がっているように思える。民族の多様性より、身近な種族や宗教的な連帯を優先する最近の風潮もそこに一つの原因があるような気がしてならない。


       もう数年前のことになるが、興味をひく世論調査の記事があった。調査は、「ムスリムでありジャワ人であるあなたにお聞きします、あなたは誰ですかと聞かれて、まずインドネシア人と答えますか、それともムスリムですか、あるいはジャワ人ですか」といった設問だった。日本人なら調査の目的を疑われかねない奇妙な設問に見えたので今でも覚えている。回答の記憶もあやふやなので、やはり「インドネシア人」の回答が圧倒していたのであろう。

      しかし今、同じ調査をしたらどうだろうか。対外的な脅威が薄れる中で、もし国民が社会の不公平感を募らせ、(主観的な判断であるにせよ)被差別感を強めていたら、そしてそのことに国が無作為であったりさらにはそれを助長しているように国民の目に映ったとしたら、調査の結果はどうなるだろうか。不公平や被差別感はいつの時代も民族や国への帰属意識を損なう大きな要因だ。

       インドネシア民族あるいは国家の一員であることに安らぎや安心感を実感しにくくなれば、例えば「マドゥラ種族の人」が、気性や習慣が同じで生まれながらの同族意識の中で暮らせる社会の方が大切だと考えるのは自然な成り行きかも知れない。あるいは小さい頃からイスラム聖典の輪読会をやった仲間たちとそのコミュニティーの方が漠然としたインドネシア民族や国家よりずっと大事だと感じる人が増えてもおかしくない。

       こういう流れが強まると、自分が帰属する一番大事な場所はインドネシアでなくなってしまう可能性すらある。杞憂に終われば良いが、インドネシア人である前に私はジャワ人だ、あるいはムスリムだ、と主張する人すら出てくかも知れない。


       ジョコウィ大統領が、パンチャシラや社会の融和が揺らいでいる状況を憂慮して、民族と国家の一体性を堅持するために宗教指導者を宮殿に集めて協力を要請したことがある。その時にあるイスラム指導者が次のように指摘したと言われる。「国民の民族的連帯感と一体感を育む原点は社会正義や公平感である。政府は果たして貧困や格差の解消などの問題を最優先課題として真剣に取り組んできただろうか」

       現代的な課題に直面すればするほど、パンチャシラはインドネシアの複雑な国柄を踏まえて考えに考え抜かれた国家理念だとつくづく感心させられる。政府は、最近の社会の亀裂を懸念して、このパンチャシラへの国民の理解を改めて深めるための模索を始めているようである。昔ながらの思想教育にとどまらず、社会正義や公平感を日々の生活の中で実現するなど、新たに連帯感を再認識できるような地道なアプローチが必要な時代になっているのかも知れない。(了)

 

 

(17.10.02)